【田原】オリヒメができたのはいつですか?

【吉藤】最初の人型は、10年7月に早稲田学内の広報誌で初めて発表しました。人型は高コストで壊れやすいデメリットがあったので、少しずつ改良して2年目には、いまのデザインに近いものになりました。さらに翌12年の9月に研究室を株式会社化して、オリィ研究所にしました。

【田原】吉藤さんはものづくりが好きで、事業には興味がなさそうに見える。どうして会社にしたの?

【吉藤】いま副社長を務めている結城(明姫)に詰められまして。じつは彼女は病気を持ちつつも、それを突破してISEFに出たり、ロンドン大学に留学した秀才。その彼女に「吉藤が死んだら、残された人たちはどうなるのか。あなたの死後も孤独な人は生まれてくる。そういった人を救うには、孤独の解消を社会のシステムに組み込まなくちゃいけない。社会システムとはお金の循環だから、ビジネスにしなさい」と指摘されて、たしかにそうだなと。

【田原】事業化にはお金がかかります。

【吉藤】ビジネスコンテストに片っ端から応募して、約500万円稼ぎました。そのお金をもとに、墨田区の町工場に間借りしてロボットをつくってました。

【田原】順調に売れたんですか。

【吉藤】いや、最初は1台も。14年に20台を実験的に売って、16年からようやく少しずつ売れ始めました。あ、売るといっても、オリヒメはレンタルで提供しています。いまは約300台がレンタルに出ています。

【田原】改良は続けているんですか。

【吉藤】はい。その過程で派生したテクノロジーを製品化したりもしています。たとえば視線入力のコンピューターとか。

【田原】何ですか、それは。

【吉藤】ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病気がありますよね。13年に、あるALS患者がオリヒメを使ってくれるというのでお会いしました。ALSは全身の筋肉が動かなくなっていく病気で、呼吸器をつければ延命ができます。でも、その方は「呼吸器はつけない」と言った。この先、話すことも笑うこともできなくなって、私は社会のお荷物になるから死ぬんだと。人間にとっては、ただ生きているだけでなく、生きて何をするのかが大事なのだという現実を突きつけられました。逆にいえば、何かできることがあれば、その方も生きるという選択肢を選ぶかもしれない。そう考えて、ALS患者が比較的最後まで動かせる目でコンピューターに入力するシステムの開発に取り組みました。

【田原】完成したんですか。

【吉藤】残念ながら、その方には間に合いませんでした。ただ、メリルリンチ日本証券の元会長でALSを発症した藤沢(義之)さんが協力してくださり、目の動きを解析してオリヒメを動かせるようになりました。その方がエンジェルになって出資してくれ、国際特許を申請して、いまはオリヒメと組み合わせて実用化されています。同じようなシステムで、目で絵を描けるツールもつくりました。そこの壁にかかっているのは、ALS患者さんが描いた絵です。その方はいまもオリヒメで出社して働き、給料をもらっています。