大学では、竹中平蔵(元総務・郵政民営化担当大臣)の指導の下、ゼミ長として、うつ病になるほど計量経済学に打ち込んだ。だが一方で、文化人類学のゼミも取っていた。

「ゴールドマン・サックスに就職したのは、当時アジアの経済危機などがあって、金融を知らなくてはいけないと思ったからです」

当初から4年くらいで辞めようと考えていた山崎だが、「最初の1年間は三食ともデスクで食べていた」というハードワークと、「年収は毎年1.5倍ずつ上がっていた」というリッチな生活に漬かり始めていた。マンションも買った。欲しかった車も手に入れた。仕事も面白い。

「ただ、お金で得られるものって、こんなものかとも感じてましたね。あと5年もすれば、僕もこの生活から抜け出せなくなるという焦りもありました」

そんなときに、山口が戻ってきたのだ。

山口は06年3月にマザーハウスを設立する。山崎がゴールドマン・サックスを辞めて、マザーハウスの副社長に就くのは、その1年後である。

「もう収入なんて20分の1くらいでした(笑)。心ない人から、『山口と付き合ってるんじゃないか』と言われたりもしました。そんな見られ方も変えてゆきたいと思いましたね」

その1、2年前から、山崎は別の事業も支援していた。

「ゴールドマン・サックスに入って3年目くらいから、お金の使い方が変わってきました。それまでは、ただ消費していただけだったんです。でも、素晴らしい可能性があるのに、お金がなくてできない人がいて、それを応援しようと思うようになった」

なかでもマザーハウスにのめり込むようになったのにはわけがある。まだ山崎がゴールドマン・サックスの社員だった頃、ある百貨店の催しもので、マザーハウスのバッグ販売を手伝うことになった。

山崎は土曜日の1日、朝から晩まで売り場に立った。懸命に説明し、必死に売り込んだが、1個も売れない。こんなに売れないものなのか……。ほとんど諦めかけていた閉店間際の夜7時半、1万5000円のバッグが1つだけ売れた。山崎は携帯で「売れたあー」と叫んでいた。

ゴールドマン・サックスでは、10億、20億円の取引が当たり前だった。でも、この1個のバッグが売れたことのほうが、よっぽど嬉しかった。この瞬間、山崎は自分のやりたいことを悟ったに違いない。

(文中敬称略)

(永井 浩=撮影)