江戸時代における最大の流行神の1つが、日比谷線・入谷駅から徒歩10分ほどの場所にある太郎稲荷だ。現在の小社からはまったく想像できないが、流行期には、浅草寺や寛永寺に匹敵するほどの参詣者を集めた。

入谷に残る「太郎稲荷」(著者撮影)

そもそも太郎稲荷は江戸の神ですらない。同地には、かつて九州の柳川藩立花家の下屋敷があった。太郎稲荷は、立花家の守護神として国元の柳川城内に祀られており、それが江戸屋敷にも分祀されたのだ。地域の鎮守ではなく、大名家の屋敷神だったのだが、それが突然民衆から熱狂的に崇拝されるようになったのである。

最初の流行は、1800年頃の麻疹(はしか)流行をきっかけにして始まった。立花家の嫡子が麻疹にかかったが、太郎稲荷のおかげで軽く済んだという噂が広まったのだ。麻疹の流行が終わった後も太郎稲荷への参詣者は増え続け、1804年には寛永寺の縁日よりも人が集まったという。

存続の危機に立つも地元民の嘆願で残る

面白いのは、太郎稲荷の流行に対する藩邸側の反応だ。多すぎる参詣者数を抑制するという名目で、関係者だけに参拝許可証を発行したのだ。しかし、制限がかけられたことで逆に参詣熱が高まり、許可証が偽造されるまでになった。歴史学者の吉田正高は、参拝制限は事故防止のためのように見えるが、太郎稲荷による経済効果は大きく、流行促進のためにあえて制限したのではないかと推測している。

その後、明治維新によって藩の力が失われることで、太郎稲荷も存続の危機に立たされた。太郎稲荷の敷地は、商業地として再開発する目的で、京橋の時計商人の手に渡った。その結果、自分の土地にえたいの知れない神がいることを嫌った持ち主の意向で、太郎稲荷を江東区の大島神社に合祀する話も持ち上がった。結局、地元民からの嘆願もあり、大島神社に分祀はされたが、太郎稲荷も残されたのである。