従来は、これらのリスクが発現するパターンとして、いわゆる「炎上」や掲示板・SNSなどでの悪質な投稿、訴訟、怪文書の流布、また時として(身体的危害を加えない形での)物理的な嫌がらせなどが知られていた。しかし、今回の事件では「殺害」という最悪な形で、言論・発信活動のリスクが発現してしまった。これはまさしく「言論に対するテロ」に他ならない。しかも、それが一個人を標的にして起きてしまったということになるから深刻だ。

岡本さんと同様にリスクを背負ってきた著名ブロガーやインフルエンサーが恐れるのも仕方がない。犠牲者が岡本さんと判明した後、そうした人たちは「ひとごとではない」「私も気をつけます」といった趣旨の発言をしている。

「気をつける」では事件は防げなかった

しかし、今回の事件の経緯を振り返ると、彼らが物理的に「気をつける」ことができる方法はほとんどないことが分かる。時事通信によれば、岡本さんと犯人は殺害当日まで互いに面識がない状態だった。岡本さんからすれば、自分に殺意を持っている相手の顔が見えない状態だったわけだ。

しかも、犯人は、岡本さんが登壇したイベント自体には参加しておらず、終了後に会場となった部屋を出た岡本さんを背後から刺したとされる。イベント終了後に、参加者でもない見知らぬ男に突然刺されたとすれば、状況としては、通り魔に不意に襲われるのと変わらない。これでは、仮にイベントで荷物検査や警備員の配置などを行っていたとしても、事件は防げなかっただろう。「気をつける」にも気をつけようがなかったのだ。

従って、今後発信者が実際に「気をつける」ことができるとすれば、その最も単純な方法は発信・言論の活動を慎重にするか、やめてしまうことだ。いつ誰に殺意を伴う怨恨を持たれているか分からない以上、不用意に敵を作らない、または増やさないために発信活動に抑制をかけよう――。多くの発信者がこうした考えに至るのは仕方がない状況だ。

さらに深刻なのは、今後ブロガーらが主催する「サロン」や「オフ会」などのイベント開催にも悪影響が起こり得ることだ。

近年、著名なブロガーやインフルエンサーなどを中心に、オフラインでのイベント開催を通して、読者コミュニティの形成や収益化を図っていく動きが急速に広がっていた。岡本さん自身も、最近ではそうしたイベントに積極的に登壇していた。