その間、仲間はぽつぽつと活動をやめるようになり、ついには国吉氏一人になった。後述する理由により、必ずしも国吉氏の活動は沖縄の人たち全員に理解されるわけではなく、時には住民と衝突することもあった。それでも2016年までほぼ休みなく活動を継続し、約6000柱の遺骨と十数万点の遺品を収容した。
遺骨・遺品の収容を続けてきたのは国吉氏だけ
国吉氏は間違いなく遺骨収容のキーパーソンだ。その理由は3つある。(1)遺骨・遺品の収容を続けてこられたのが国吉氏だけであるという唯一性、(2)60年間休まず収容を続けられたという継続性、(3) 国吉氏の思いと沖縄社会との間の不調和性の3点だ。
遺骨・遺品収容を継続的、かつ沖縄本島全域に及ぶ規模で行ってきたのは国吉氏のみである。沖縄の多くの人々にとって遺品は、米軍の攻撃と、日本軍による生存権と尊厳の簒奪(さんだつ)という二重の抑圧を想起させる。このため、保存することも避けたいと考える人も少なくない。
その結果、沖縄戦関連の遺品の大半は国吉氏が収容したものとなった。沖縄戦遺品の分析をする上で、国吉氏の証言は欠かせないものだ。なぜなら遺品が「声なき語り部」の役割を果たすためには、遺品の品目・形状・出土場所・出土状況といった情報が必要だからだ。
例えば、曲がったガラスの注射器は、「内部が黒く炭化した壕で、他の注射器や薬瓶などと共にまとまって埋まっていた」との証言があってこそ、「その壕は火炎放射を受けた野戦病院壕である」「野戦病院壕の軍医らが証拠隠滅のために医療器具をまとめて壕内に埋めた可能性がある」として解釈可能になる。国吉氏の収容状況に関する証言は、遺品を用いた記憶継承の精度を大きく左右する。
なぜ沖縄県民は収骨行為を拒絶するようになったのか
また、国吉氏の証言の時間的深みには、戦後沖縄の変容を明らかにする鍵が隠されている。国吉氏は約60年にわたって収容を続けてきたため、戦後直後から現代にかけて、壕の様子、そして壕と人々との間の関係性がどのように変化したか、という点についても見識が深い。
沖縄は琉球石灰岩を基調とする地質の性格上、地形の変動が激しく、現在では多くの壕が戦時中の形状を保っていない。そのため国吉氏でなければ発見・確認できない壕も少なくない。国吉氏と沖縄本島の南部戦跡を巡ると、素人目には茂みにしか見えないところで国吉氏が突如立ち止まり、「ここに壕がある」と指さす場面に頻繁に遭遇する。このような証言は沖縄返還後に内地から向かった収容ボランティアには決してできないものである。
さらに国吉氏の証言からは、戦後直後はたびたび壕に入っていた沖縄県民が、徐々に壕を嫌忌すべき記憶の眠る場と見なすようになり、最後には収骨行為自体を拒絶するようになるという変化を知ることができる。実際、国吉氏も仲間の離散を繰り返し強調する。国吉氏の証言には、人々の「壕離れ」の原因を分析する鍵が隠されているはずだ。