一方、千利休説はどうか。利休もまた、その生涯に謎の部分が多い人物で、光秀に茶の心得があったことや、光秀の没年(1582年)と利休が歴史上に登場する年(1585年)が近いことなどが、「光秀=利休」であることの証であるとされている。

さらに、光秀の最期を知る上で重要なのが、岐阜県山県市中洞にある光秀の墓。同地の白山神社に建つ「桔梗塚」がそれだ。中洞の伝承によれば、小栗栖で死んだのは光秀の影武者・荒木山城守行信で、光秀は荒深又五郎(小五郎とも)と名を変え、落ち延びたという。

雑学総研・著『誰も書かなかった 日本史「その後」の謎大全』(KADOKAWA)

信長に献上された黒人「弥助」の謎

史料に記されている範囲において有名な異人の一人に「弥助」という人物がいる。彼こそ、織田信長がはじめて対面した黒人で、時は1581年2月のことであった。

この人物に関する逸話で有名なのが、信長の驚きぶりだ。肌の色が黒いということをどうしても納得できなかった信長は、上半身の衣服を脱がせて入念に洗うよう指示した。だが、洗ったことで肌の色が変わるわけはなく、いっそう肌が黒く見えたことから、そこで信長はようやく黒人の存在を信じることができたという。そして、その黒人は信長により「弥助」と名付けられ、戦にも同行している。

ではその後、黒人の弥助はどうなったのだろうか。実は、信長が討たれた本能寺の変のとき、弥助も上洛していた。つまり、信長のすぐ側にいたのである。また、急襲されたときの弥助の行動は不明ながらも、信長自刃後、信長の長男・信忠がたてこもる二条御所に駆けつけ、明智の軍隊と戦ったようだ。

イエズス会宣教師のある報告書によれば、「(明智の)家臣はこの黒奴(くろやっこ=弥助)をいかに処分すべきか明智に尋ねたところ、黒奴は動物で何も知らず、また日本人でない故これを殺さず、インドのパードレの聖堂に置けといった」とあることから、弥助は明智軍との戦闘において殺されることはなく、教会に預けられたことが読み取れる。この「黒奴は動物」という記述は、まさに人種差別もいいところだが、当時の日本人の理解ではその程度しか持ち得なかったのだろう。

その後、弥助がどうなったのかは不明だが、日本にとどまらず、宣教師などに連れられ船に乗って国外へ出た可能性も捨て切れないようだ。

雑学総研(ざつがくそうけん)
珍談奇談の類から、学術的に検証された知識まで、種々雑多な話題をわかりやすい形で世に発表する集団。江戸時代に編まれた『耳袋』のごとく、はたまた松浦静山の『甲子夜話』のごとく、あらゆるジャンルを網羅すべく日々情報収集に取り組む傍ら、最近ではテレビ番組とのコラボレーションも行なった。
【関連記事】
「西郷どん本当の顔」論争は解決したのか
なぜ西郷どんの「ウソ」はゆるされたのか
日本の歴史で「最恐の鬼嫁」とは一体誰か
大前研一「日本人が知らない日本の歴史」について、話をしよう【前編】
特攻隊員は「志願して死んでいった」のか