21世紀に合うよう脱皮していない日本の大企業

デジタルコンチネント(デジタル新大陸)が加速度的に拡大し、リアル経済を侵食してデジタルディスラプション(技術による破壊的イノベーション)を引き起こしている今日、企業の派手な置き換えが現在進行形で起きている。そうしたプロセスから見れば、我々が目の当たりにしている企業の不祥事は、ぬくぬくと昔のやり方でごまかしてきたものがいよいよ通用しなくなって、表面化したにすぎない。

要するに、それらの企業は21世紀に合うよう脱皮していないのだ。

20世紀後半は「日本の世紀」と持ち上げられて、日本という国家も、日本の企業も成功体験を積み重ねた。そして20世紀の成功体験を引きずったまま、21世紀に足を踏み入れてしまった。

しかし、20世紀の延長線上に21世紀の繁栄はない。

21世紀型の国家、あるいは企業に脱皮するためには、自らを新しく構想し、血を流してでも自己を変革する必要がある。鴻海の力を借りたシャープの再生は、変革の重要性と自己変革の難しさを物語っている。同時にやり方が正しければ再生できる実力が伝統ある企業には残っていることが証明されている、とも言える。カルロス・ゴーン氏による日産自動車の改革もそうした基礎体力があったから成功したのであって、その基礎体力がない御本家ルノーはゴーン氏といえども改革できていない。

ドイツはシュレーダー政権時代の03年に「アジェンダ2010」という10年をターゲットにした大胆な構造改革プログラムを打ち出した。当時、日本同様、ドイツ経済も低迷を続けていたが、その原因の1つは硬直化した労働環境にあった。これに危機感を抱いたのは労働者の権利を守るべき立場の与党社会民主党(SPD)で、「アジェンダ2010」には解雇規制の緩和が盛り込まれた。つまり社員を解雇しやすくしたのだ。解雇されて労働市場に出てきた人材は国が責任を持って再教育して、21世紀の新しい産業で食べていけるようにする。「だから雇用にこだわらずに人材を活用せよ」と産業界に社員をクビにする自由を与えた。

ひたすら労働者の雇用を守り、権利を守り、休暇を延ばして、給料を上げていたら、ハイテクに強くて労働コストの安い新興国に仕事はすべて持っていかれる。競争力を取り戻すために解雇規制を緩和するという発想は、労働運動からは絶対に出てこない。

しかし、労働組合を支持母体とする左派政権だからこそ痛みを伴う改革ができたとも言える。あまりの痛みに05年の選挙で与党SPDは敗北しシュレーダー首相は退陣するが、メルケル首相の時代になって成果が如実に表れてドイツ経済は見事に復調した。

日本ではこうした議論さえまだスタートしていない。それどころか、安倍政権の働き方改革によって労働時間は短縮され、正社員化はさらに進んでいる。そのうえ、首相自ら賃金アップを財界に要請する始末。他方、安倍晋三首相は「同一労働同一賃金」などと平気で口にする。ボーダレス経済において、仕事の内容が同じで給料が5分の1なら、企業は皆、そっちに流れていく。それで「国内の賃金を上げろ」では、企業に海外に出ていけと言っているようなものだ。

そもそもアベノミクスは19世紀の経済学だし、安倍政権は21世紀の経済というものをまったく洞察できてない。だから企業の足を引っ張るような方向違いの改革に精を出し、日本を20世紀の労働慣行に引き戻しているのだ。それこそ“国難”である。