※本稿は、チャド・マレーン『世にも奇妙なニッポンのお笑い』(NHK出版新書)の第3話「ところ変われば笑いも変わる」を再構成したものです。
日本ならではのあるあるネタ
サラリーマンやおばちゃんなどよくいる人物だったり、日常生活のよくある場面だったり、「なんかいそう」な人や「なんかありそう」なことをいじってお客さんの共感を呼び、笑いをとる。こうした手法は、これまでも漫談や漫才の中でさんざん使われてきました。それが、レギュラーの「あるある探検隊」をはじめ、「あるある」だけにフォーカスしたネタをつくる人たちが現れ、いまや世間的にも一ジャンルとして認められるようになっています。
なぜ、あるあるネタが日本的なのか。それは、海外の人にあるあるネタを説明しようとしたら、まずはその概念から説明しないといけないほど、通じないものだからです。
あるあるネタは、見ている人の間にある程度共通した意識があってこそ成り立つもの。でも欧米の国々では人種や階層が多様で、共通意識を持つということ自体がそもそも難しい。だから、海外であるあるネタをやったとしても「いやこういうのもあるんじゃないか」「こういうのもあるだろう」となってしまって、「あるある!」とはならないのです。
海外の人だって、自分がよく知るタイプの人やシチュエーション、その昔に経験したことをネタにされたら笑いますし、実際、特定の人たちに向けたコメディにはそういう「あるある」ネタも盛り込まれますが、結局みんなの「あるある」がバラバラなため、ほかへ行っても通じず、ジャンルとして確立しないわけです。
欧米の笑いは「ツッコミ」不在
これは、海外のお笑いにツッコミが不在であることにもつながっています。ツッコミは常識人であり、観客の代弁者です。ツッコミがそうした役割を担えるのは、見ているみんなの常識が一致している、という大前提があるからです。
一方、欧米の国々では育ったところもいろいろ、宗教観もいろいろ、人種もいろいろ、人生観もいろいろと、人それぞれ価値観がだいぶ異なります。なので、ツッコミは共感を得られないだけでなく、下手したら反感を買ってしまう危険がある。だから、「ボケのあとはそれぞれ勝手に心の中で受け止めてね」ということになるのです。
昨今の日本では格差が広がっているとかいろいろ言われていますが、ある程度まではみんな同じような教育を受けていて、同じようなものを見てきている。まだまだ一つの共通意識、一つの文化が共有されているんだと思います。一つのことをみんなが同じように理解できるから、ちょっとした細かいところで笑いがとれる。あるあるネタというジャンルが確立されていること自体が、その表れでしょう。
日本のお笑いがこれだけ細分化され、発展してきた理由の一つとして、お客さんが共有している意識の幅が広く、その中でボケやすいこともあるのです。