実際、1996年4月、ハンティントンが日本の「対中バンドワゴン」選択を指摘したのと同じ刻限に、橋本龍太郎(当時、内閣総理大臣)とウィリアム・J・クリントン(当時、米国大統領)は、「日米安保共同宣言」を発し、日米同盟の「再定義」を行った。日米同盟は、この「再定義」を経て、「アジア太平洋地域における平和と繁栄の礎石」として性格付けられた。

小渕恵三内閣下の「新・日米防衛協力指針」関連諸法の成立から安倍晋三内閣下の安保法制策定に至るまで、過去20余年の日本の安全保障政策は、表層としては北朝鮮の「核」と「ミサイル」の脅威に対応するものでありながら、底流としては中国の隆盛を前にした「対中バランス」の考慮を働かせたものであった。

民主党政権の「対中接近」破綻の後で

もっとも、こうした「対中バランス」の政策方針は、民主党内閣3代の下では顕著に停滞した。鳩山由紀夫内閣期、在沖米軍普天間基地移設案件で「最低でも県外」を標榜した鳩山の政策対応が対米関係に無用な混乱を招いたのは、その停滞を象徴する風景であった。加えて、この時期、小沢一郎(当時、民主党幹事長)が民主党議員百数十名を含めた訪中団を率いて北京に赴き、胡錦濤(当時、中国国家主席)との会談に及んだことは、その仰々しさの故に、日本の政治風土では異形な「対中バンドワゴン」の様相を日本の内外に印象付けた。

その後、菅直人内閣期の尖閣諸島沖中国漁船衝突事案の処理、さらには野田佳彦内閣期の尖閣諸島国有化直後の中国国内「反日」騒動激化は、日本国内の対中感情を一気に冷却させた。それは、対米関係よりも対中関係に重きを置いた感のある民主党内閣当初の方針の破綻を意味するとともに、特に野田内閣以降の「対中バランス」方針への回帰を促した。それは、他面では安倍晋三の再登板以降に「対中バランス」方針が鮮烈に展開される下準備となったのである。