右翼とケンカして、テレビ局に切り捨てられた

――現状はオタク文化が正しく政治化しているわけではない。

そのことは、ネット右翼やヘイトスピーカー、歴史修正主義者がネット上で目立つことと密接に結びついていると思っています。一方では、サブカルチャーではなく、いわゆる「サブカル」の人たちは自分探し的にナイーブな文化左翼になっている人が多い。これはコンプレックスの抱え方が違うだけで、ほぼ同じ現象ですね。こういう状況は、僕自身にも無関係ではありません。言ってしまえば「政治と文学」の問題に報復されて、今回僕はテレビの職を失っているわけですよ。

――『スッキリ』(日本テレビ)を降板した背景にも、歴史修正主義への批判に対する圧力があったと発言されていましたね。

要するに、右翼とケンカして、テレビ局は僕を切り捨てたわけです。これは、僕がオタクの政治性という問題を理解していたにも関わらず、そこで起きていた現象を過小評価したことで、報復されているんだと思うんですよね。

――オタクが正しく政治化する可能性とは?

今のネット右翼というのは、「政治と文学」という関係のなかで、成熟した「父」になれなかったルサンチマンを、国家という巨大な「父」と同一化することによってごまかそうとしているわけです。でも今は「政治と文学」よりも「市場とゲーム」の時代になっていると思うんですよね。そういった時代には「父」ではない成熟の像がリアルに感じられるようになってきたと思うんです。たとえばマーク・ザッカーバーグという人がいる。彼は偉大な人物だと思いますが、成熟した「父」というイメージではないですよね。

『シン・ゴジラ』に秘められた可能性

――6部では『シン・ゴジラ』について論じながら、オタクの可能性を提示しています。

『シン・ゴジラ』という作品を手放しで肯定したいとは思いません。けれど、総監督の庵野秀明がやろうとしていることは、まさにオタクのもうひとつの成熟の可能性だったと思っています。「父」を志向する物語ではなく、技術に足場を置く。『シン・ゴジラ』を通じて、僕は「父」になれなかったルサンチマンという自意識の問題としてのオタクではなく、日本的フューチャリズムとしてのオタクというものがあり得るのではないのかと考えました。

いま世界で支配的な思想はジェレミー・リフキンやクリス・アンダーソンのような技術楽観主義の「カリフォルニアン・イデオロギー」ですが、それとは違う形の思想を日本のオタク文化から生みだせるのではないか、という問題設定なんです。オタク的な技術主義は、イデオロギーへの免疫のなさにもつながれば、イデオロギーを相対化する防波堤にもなる諸刃の剣です。だからこそ、僕はこのカリフォルニアン・イデオロギーの時代に、かつての「オタク」がもっていたものを批判的に再検証し、アップデートすることが必要だと考えています。(つづく)

宇野常寛(うの・つねひろ)
評論家、批評誌〈PLANETS〉編集長。1978年生まれ。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)などがある。京都精華大学ポピュラーカルチャー学部非常勤講師、立教大学兼任講師。
(聞き手・構成=柴 那典)
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