昨年の「斬新すぎる人選の失敗」を踏まえ、「生粋の文学人」から今年の受賞者を選ぶ。そういう判断から、イシグロの戴冠が決められた。そんな風に考えるなら、今年の選考結果に得心がゆく。
牢屋に入らなくても、ロック歌手でなくても、「魅力的な文学作品」を書けばノーベル文学賞が獲れる。スウェーデン・アカデミーはそのことを今年はっきりとしめした。その事実に、「文学でしか語れないもの」を信じたい私は揺り動かされた。この思いは、イシグロの受賞をよろこんだハルキストたちにも共有されていたはずだ。
なぜ春樹でなくイシグロだったのか
ただし、「生粋の文学人」として歩み、すぐれた著述をのこしている書き手はイシグロひとりではない。村上春樹も、「政府に拘禁もされず、芸能活動もしない作家」である。イシグロではなく、春樹を受賞させる選択はありえなかったろうか。
イシグロの作風は多岐にわたる。ブッカー賞受賞の代表作『日の名残り』はリアリズム小説。キャリー・マリガン主演で映画化された『私を離さないで』はSF仕立てだ。長編最新作『忘れられた巨人』は、アーサー王の死後まもない時代を舞台とし、ファンタジーの趣がつよい。
いっぽうで、イシグロの作品には共通の特徴がある。私たちの生が抱える原理的な不自由。そのことを、「運命の囚われ人」になった存在をえがくことでイシグロはしめす。他の有名作家でいえば、フランツ・カフカの作品にテイストが近い。
イシグロの受賞理由を、スウェーデン・アカデミーはつぎのように述べている。
「偉大な感情の力をもつ小説で、われわれの世界とのつながりの感覚が不確かなものでしかないという、底知れない淵を明らかにした。」
イシグロに対する評価として、このコメントは至当といえる。
春樹の作品に登場するのも、多くの場合、疎外意識を抱えた人物だ。とはいえ、春樹ワールドの住民の不自由は、イシグロの登場人物ほど切羽つまってはいない。春樹の描く人間は、自分をとりまく「なじめない状況」に距離をたもち、これと批判的にかかわる。イシグロの世界では、「意のままにできない現実」のただ中に、人びとはいや応なく巻きこまれる。
イシグロの小説は、春樹の作品より深刻な印象をのこす。先ほどカフカを引きあいに出したが、過去の「大文学」に読後感が似ているのは春樹よりイシグロだ。
私たちは、自らの意志にかかわりなく、この世界に送り出される。そこで生きのびるための条件も、自力ではほとんど動かせない。私たちは、たしかに不自由を強いられている。
そういうことはしかし、常に意識にのぼっているわけではない。
日常の端々で、「意のままにならない事態」に遭遇する。そのとき自分の環境が、どれほど困難であるかにふと思いをいたす――人間が不自由と向きあう実情は、春樹の描くそうした光景に近い。
「等身大の不自由」を描く。これまでの有名作家にくらべ、その点で春樹は画期的だった。
ゆえに、「伝統的な大文学」を選ばなくてはならない今年、「カフカのようなイシグロ」ではなく「等身大の春樹」に戴冠させる。そういうシナリオは、スウェーデン・アカデミーの立場からするとおそらく禁忌であった。