当事者かどうかという属性から離れる

――「江夏の21球」がスポーツノンフィクションを一変させたように、「ニュー・ジャーナリズム」の手法は現在のノンフィクションの基底をなしていると思うのですが、同時にそれが客観性を失わせてしまった、書き手の想像だけで「~はこう思った」と書けるようにしてしまった、という批判もあります。その点はどう考えますか?

フィクションとノンフィクションの間の皮膜はそんなに強固なものではなくて、あっさり食い破る人も、飛び越えてしまう人もいますよね。それは重要な問題なんですけど、結局は書き手の心持ちひとつ、としか言いようがないと思っています。

石戸諭『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)

90年代に沢木さんが市井の人々に題材にした『彼らの流儀』を発表されたときに、「発光体は外部にあり、書き手はその光を感知するにすぎない」と、その手法を語っていました。ノンフィクションを読んでいると、書き手自体が発光体になってしまう文章も多いですよね。

充実した取材をするためには、対象への想像力を働かせる必要があります。しかし想像力だけで書くことは許されません。一方で、事実ではないと知りつつ事実のように書くことも、僕らのようなノンフィクションの書き手には許されていないんです。「フェイクニュース」は、こうした一線を踏み越えたものだと思います。

 

――石戸さんの「ノンフィクション」がこれからのネット環境でどう受け入れられていくかが興味深いですが、この本はBuzzFeedのことをまったく知らない読者からの反響も多くて、届いている層が少し違うのかなと感じました。

そうなんですよね。福島の中通りにおばあさんが住んでいるという方からは、「これまで『おばあちゃんは大丈夫?』と聞かれてもなんて答えていいかわからなかったけど、私には私だけの体験、私だけの福島があるんだから答えられなくて当たり前なんだ、と思えた」というメールをもらいました。当事者かどうかという属性から離れて、個人に接近して個人の体験として描くということは、やっぱり単発の記事では難しい。少しはできたのかな、と手紙をもらってようやく思えましたね。

――「この本には共感も違和感もある。それは震災の体験が自分だけのものだからだ」という感想もツイッターで見ました。

そう、あれは印象に残りました。

――語りにくかった違和感を語るきっかけの本になればいですね。

自分だけの体験を大事にしていい、そう思った人が何人かでもいたのなら、書いたかいがあったと思います。一本の記事ではそこまでは書けませんから。

石戸 諭(いしど・さとる)
BuzzFeed記者。1984年生まれ、東京都出身。2006年立命館大学卒業後、同年に毎日新聞入社。岡山支局、大阪社会部、デジタル報道センターを経て、2016 年1月にBuzzFeed Japan に入社。

柳瀬 徹(やなせ・とおる)
フリー編集者・ライター。『リスクと生きる、死者と生きる』の編集を担当。編集した他の本は五十嵐泰正『みんなで決めた「安心」のかたち』、五十嵐・開沼博編『常磐線中心主義』、久松達央『小さくて強い農業をつくる』、荻上チキ『災害支援手帖』、飯田泰之編『地域再生の失敗学』など。
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