滋賀と京都・大阪の結びつき

滋賀の高校生はなぜ京都・大阪を志向するのか。

膳所の卒業生は、「親が、自宅から通える大学にという制限をかけることも多い。また、学校の先生も京大を推していて、京大に比べて東大の印象が薄い」という。さらに、膳所には高大連携授業などで在学中から京大の研究・授業に触れる機会が用意されているので、親しみが湧きやすい側面もあるのだろう。ミクロに見れば、親や高校の先生、先輩など、周りの環境が意思決定に大きな影響を与えているのは明らかである。

一方でマクロに見ると、交通の便と歴史的な流れがあると考える。まずは交通の便。京大は、大津・草津市内であればほぼ通学可能圏内に入る。大津市であれば阪大にもギリギリ通うことができる。滋賀の鉄道は、JR琵琶湖線とJR湖西線が動脈だが、京阪でも逢坂の関を超えて京都に出られる。京都から大阪へは、阪急・京阪・JRの三本が通り、さらに大阪から兵庫へは阪神・阪急・JRの3本がつながっている。

この結びつきを歴史的に見てみよう。古くから淀川(上流は瀬田川)が近江国から摂津国の大阪湾へと注ぎ、滋賀を通る主要街道は全て京都へと続く。この水運と陸路、西廻り航路が開発される江戸時代の前期までは非常に重要だったのだ。

琵琶湖博物館に行くと、巨大な丸子船の模型がある。この船が、北国からの「物流の要」として琵琶湖の上を行き来していた。若狭から峠を越えて塩津の港に着き、そこから湖上を大津へ。そして淀川の流れに沿って京都・大阪へ運ぶ流れである。石山駅の近くで瀬田川を渡り、大阪駅の前後で2度淀川を渡るJRは、まさに昔ながらの人・情報の流れに沿って走っている。

交通の要衝であり続けた近江

滋賀は古くから歴史の中心地であった。667年には天智天皇によって近江大津宮が置かれ、古代最大の内乱である壬申の乱は瀬田の唐橋を舞台に決着を見た。

政治だけではない。最澄は天台宗の総本山・延暦寺を比叡山におき、紫式部は石山寺で源氏物語の着想を練った。宗教・文化に果たした役割も小さくない。

前述の水運、そして京都から越前や美濃へ抜ける街道も通り、交通の要衝として栄えた。その重要性は信長も立証している。足利義昭を奉じて上洛した信長は、義昭から副将軍の職を勧められたが、辞して代わりに大津・草津と堺に代官を置く権限を求めている。大津・草津は湖上交通の要衝だ。堺と並ぶ重要拠点であったことが伺える。そして、信長はその後近江の安土に居城を築いた。

日本中に進出した近江商人

一方で、主要街道沿いに生まれた「三方よし」の近江商人が、江戸時代に日本全国に散らばって活躍した。

近江商人の活躍の形跡はわが家のすぐ近くにもある。西武大津ショッピングセンターだ。西武ライオンズが優勝した時にはショッピングセンター前で風船を配布するのが通例であり、小学校の頃はその風船目当てに西武を血眼で応援していた。家の近くにあるプリンスホテル、そしてプリンスホテルから家の前を通って大津駅まで走るバスは西武によって運営されていた(今年9月末で廃線)。幼稚園に通う際に毎日のように使っていた。なぜこれほど西武づくめなのか。

西武の創業者・堤康次郎の出身地が滋賀県愛知郡なのだ。衆議院議長も務めた堤氏は、大津市の最初の名誉市民でもある。西武発祥の地は滋賀にあり、西武が大津の皇子山球場で一軍の試合を開催したこともあった。今はマリナーズで活躍する岩隈(当時楽天)の投球を、滋賀で見られたのは幸運だった。

今自分が暮らしている東京でも、近江商人の足跡はしっかりと見て取れる。日本橋に本店を構える高島屋である。江戸後期、京都で「高島屋」という米穀商を営んでいた飯田儀兵衛は、近江国高島郡(現在の高島市)出身の近江商人だった。そこに婿養子に入った飯田新七が「高島屋」の屋号を継いで、古着と木綿を扱う店を始めたのが百貨店「高島屋」の始まりなのだ。要するに、近江商人ののれん分けである。今でも毎年春に「大近江展」なる滋賀の物産展が行われていることからも結びつきの強さが伺える。