世間を驚かせた名経営者の会長就任
川村氏は1962年に日立製作所に技術者として入社。火力発電所、原子力発電所などの開発に携わり、99年には副社長に就任。2003年に退任後はグループ会社の会長を務めていたが、09年、転機が訪れる。
日立製作所は09年3月期決算で、7873億円という巨額の赤字を計上する。当時、国内製造業では過去最悪の数字だ。川村氏は「沈みゆく巨艦」とも形容された古巣からの呼びかけに応じて、社長に就任。3年後の12年3月期決算では過去最高の純利益を上げるなど、短期間で奇跡のV字回復を成し遂げた。
さらに氏への評価が高まったのは、その身の退き方だ。14年には日立会長職をあっさりと退任し、米倉弘昌氏の後任と目されていたものの、日本経済団体連合会会長就任も固辞している。
「経営者として見事な引き際だ」と多くの経営者に賞賛された川村氏だからこそ、東電会長職就任の知らせは世間を驚かせた。
「こういう言い方は口幅ったいですが、少しでも東電を支援できないかという気持ちから引き受けました」
16年度から東電の経営改革を議論する有識者会議の一員となった川村氏は、原発事故が社会に与えた影響の大きさを改めて感じるとともに、事故の責任を負う東電の経営の難しさを見て、「このままではへこたれてしまうかもしれない」と危惧していた。さらに川村氏の脳裏をよぎったのは40年以上前の日本のエネルギー危機だ。
70年代のオイルショックで、在籍部門は大幅な赤字。原油価格が倍々で上がっていくのを見ながら、日本のエネルギー政策がいかに脆弱かを思い知った。その後、国は火力発電への依存を見直し、原発の比率を増やしたが、東電の事故が発生。
「停止している原発の穴を埋めるために、毎年、何兆円もの燃料代が日本から流れ出している。それでも、電気はついているし、70年代と比べれば日本にはお金があるから危機意識は高まらないままです。しかし、そのお金は、本来、後輩たちが今後使うために残しておけるはずだった。オイルショックを経験した者として、現在の状況は非常に残念で、このままではいけないという危機感を抱いています」