「郵便的マルチチュード」という新たな概念

この整理をもとに、東は、現代の思想的な困難を次のようにまとめている。

<リベラリズムは普遍的な正義を信じた。他者への寛容を信じた。けれどもその立場は20世紀の後半に急速に影響力を失い、いまではリバタリアニズムとコミュニタリアニズムだけが残されている。リバタリアンには動物の快楽しかなく、コミュニタリアンには共同体の善しかない。このままではどこにも普遍も他者も現れない。それがぼくたちが直面している思想的な困難である>

いやはや、チャート式も真っ青の整理力・解説力は、円熟という言葉がふさわしい。

では、この袋小路を抜け出す道はあるのだろうか。著者は、ネグリとハートの「マルチチュード」という概念を批判的に検討し、「郵便的マルチチュード」という新たな概念を提出する。そしてこの郵便的マルチチュードを体現する存在が、観光客なのだ。

「郵便的」とは「誤配すなわち配達の失敗や予期しないコミュニケーションの可能性を多く含む状態」であり、「マルチチュード」とは群衆のことだ。

観光客は観光の場で、さまざまな人や事物と出会う。それはたまたま入った美術館や土産物屋かもしれない。もちろん観光客は、そこで連帯しようなんて気はさらさらない。でも「そのかわりたまたま出会ったひとと言葉を交わす」。その偶然的なコミュニケーションを通じて、あとから「なにか連帯らしきものがあったかのような気もしてくる」。

ここに至って本書は、21世紀の連帯のすがた、そしてそれを実現するための方角をはっきりと描き出している。それはまた、21世紀の新たな抵抗のすがたでもある。

<ぼくたちは、あらゆる抵抗を、誤配の再上演から始めなければならない。ぼくはここでそれを観光客の原理と名づけよう。21世紀の新たな運動と連帯と政治はそこから始まる>

ふつうの単行本であれば、ここで大団円となってもおかしくない。だが本書は、さらに第2部「家族の哲学(序論)」と銘打って、「観光客が拠りどころにすべき新しいアイデンティティ」の探求へと接続されていく。

観光客と家族。一見、共通点のない二つの言葉が、「誤配」や「偶然」を媒介にして結びついていく。ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、ドストエフスキーの読解から立ち上がってくる「家族の哲学」もまた、「観光客の哲学」と同様、東浩紀だけが開拓しえた新しい連帯への足がかりであり、うんざりするこの世界に絶望しないための「希望の哲学」でもあるのだ。

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