人文系知識人のグローバリズム・アレルギー

そんな途方に暮れそうな課題に対して、東浩紀は「他者のかわりに観光客という言葉を使う」という戦略を提示する。少し長くなるが、戦略の意図を引用しておこう。

<他者とつきあうのは疲れた、仲間だけでいい、他者を大事にしろなんてうんざりだと叫び続けている人々に、でもあなたたちも観光は好きでしょうと問いかけ、そしてその問いかけを入り口にして、彼らを、いわば裏口から、「他者を大事にしろ」というリベラルの命法のなかにふたたび引きずりこみたいと考えているのだ>

が、この戦略の実行はたやすくない。というのも、近代から現代に至るまで、人文系の哲学者や思想家は、観光客のことなんて、これっぽっちも考えてこなかったからだ。

なぜ、観光客は哲学の対象にならなかったのか。著者は本書の前半で、ヘーゲル、カール・シュミット、ハンナ・アレントといったボスキャラ級の哲学者と対決しながら、この問題を執拗に追求していく。

そうして浮かび上がってくるのは、人文系知識人のグローバリズム・アレルギーである。

<彼らはみな、グローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピアを拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとしている>

人文系知識人のグローバリズム嫌いは、観光客の否定でもある。彼らの人間観、社会観からすると、「ふわふわと国家間を移動する観光客」は、ふまじめな「人間ではないもの」と位置づけられる。政治のことなど考えず、好きなように金を使う「動物的消費者」。そんな奴らがのさばるようじゃ、人間は腐ってしまう。

だが、グローバリズムが進む21世紀に、彼らの思想や理論は通用しない。そこで東は、この人文的発想を逆転させる。「観光客はまさに、20世紀の人文思想全体の敵なのだ。だからそれについて考え抜けば、必然的に、20世紀の思想の限界は乗り越えられる」と。

ここから見事な手さばきで、21世紀という時代の図式が整理されていく。曰く、現代において、政治にはナショナリズムが、経済にはグローバリズムが割り当てられ、共存している「二層構造」の時代である。そして、「リバタリアニズムはグローバリズムの思想的な表現で、コミュニタリアニズムは現代のナショナリズムの思想的な表現である」。