プレジデント誌は1996年4月号で「プロバイダーという新商売は、儲かるのか?」という小特集を組んだ。日本のITを牽引するソフトバンクが株式東証一部上場を果たしたのがその2年後で、まさに米国ヤフー社がソフトバンクと合弁でヤフージャパンを設立した年にあたる。

時代は、インターネットの胎動期だが、インターネットの出現が、世界を一変させるとは当時、誰が予想しただろうか。このような時代背景で小誌特集は組まれたのだが、新たなビジネスチャンスを求め、プロバイダービジネスに参入しようとする、創業6年目のマンション開発・販売会社があった。社員たちに囲まれた若々しい社長の写真とともに、その会社は紹介されている。

「27歳の若さで独立し、マンションの企画・設計・販売を手がける会社を設立。以来6年で、年商は1億6000万円から57億円へと実に36倍、社員も4人から80人へ、広島でのマンション販売市場の50%シェアを占めるトップ企業へと育て上げた青年起業家である」

プレジデント誌の記事から12年後、その青年実業家は東京証券取引所の一室でやつれ果てた体を折って、深々と頭を下げた。青年実業家の名前は、房園博行。約2500億円の負債を抱え、破綻に追い込まれたアーバンコーポレイション(以下、アーバン)創業者にして、社長である。

「3月以降、金融機関から新規融資や短期借入金の借り換えが困難になるなど資金繰りが急速に悪化した」

土壇場まで資金繰りの手当てに奔走していた房園はここ数十日で10キロ近く体重を落とした。房園は、関係各所にまず民事再生の手続きを伝え、自らの非力を詫びながら、迷惑をかけたことを謝罪し続けていた。その言葉は涙で何度となく途切れた。アーバンがわずか4人で広島市内のマンションの一室で産声を上げてから、18年。資本金190億円余り、従業員はグループ全体で1500名を超える企業に成長していた。2002年、東証一部上場をしたその日、東証の恒例に従い、房園が理事長に連れられて東証内部を案内された6年後のことだった。

房園は“才覚溢れた経営者”といわれた。96年時点で、インターネットでの営業展開を明確に視野に入れていたのもその証拠だろう。ある外資系投資銀行の幹部は経営破綻の一報を聞くや、「もったいない。彼(房園)にもう一度経営をやらせたい……」とその才を惜しんだ。