設備投資がどんな風に行われるかをよくよく考えると、それは家計部門が消費しないで残した財が、企業部門に回されることによって成り立つのである。生産された財(あるいはその価値)は、それがどんな財であれ、当然、生産に携わった誰か「人間」の所有物となる。それは、労働者に労働の対価として支払われるかもしれないし、経営者に経営の報酬として支払われるかもしれないし、株主に出資の見返り(配当)として支払われるかもしれないし、土地の所有者に地代として支払われるかもしれないが、決して、「誰のものでもなく宙に浮いている」ということはない。

このように、生産された財(あるいはその価値)は、必ず、誰かの所有物になる。支払いが一般に貨幣で成されるから、我々が自分の生産した財そのものの所有者の気がしないだけなのである。とすれば、生産された財(あるいはその価値)の一部が、その人によって消費されないでいるからこそ、その財を設備投資という形で活かし、次なる生産に用いることができるのである。家計部門では、自分の取得した所得(すなわち生産物の価値のうちの自分の取り分)を消費せずに残すことを貯蓄という。

これは社会全体で見れば、生産された財を消費せずに、次なる生産に活かすことであり、つまりめぐりめぐって投資となるのである。具体的には、家計部門から企業部門に、株式市場を通じて出資という形式で提供されるか、債券市場を通じて貸し付けられるか、銀行を経由して貸し付けられるか、のいずれかの形式をとって、財が家計から企業に手渡される。

いわゆるタンス預金、つまり現金をタンスにしまっておく場合、その分の財は企業の「在庫」となって現れるのだが、その話は次回で説明する。

さて、これで企業部門で投資される財の総量が、家計部門の貯蓄した財の総量と一致するという原理がわかったので、話をもとに戻そう。さきほど、利子率を一定と仮定し、投資が一定額に決まることを述べた。したがって、今述べた原理によって、家計の貯蓄の総額もその額と同じ額に決定されてしまう。

ここで仮定(2)を思いだそう。家計部門では、所得、消費、貯蓄のうち1つの額が決定すれば、残りの2つは自動的に決まってしまう、と仮定されていた。今、(投資額と一致することから)、貯蓄が一定額に決まったのだから、消費も一定額に決まってしまう。したがって、今、消費のための財の需要も一定額に固定されたことになる。

ところですべての財は、家計部門によって消費に利用されるか、企業部門によって投資に利用されるかしかありえないから、投資の総量も消費の総量も決まった今、財の必要量は一定に決まってしまったことになる。これがケインズのいう有効需要である。企業が、これ以上の財を生産すれば、それは売れ残りを生み出すことと等しいのだ。