「プロである以上、手ぶらで帰ってきてはいけない」

後輩や同僚、顧客たちが取材のなかで共通して語っていたことがある。いわゆる“トップセールスマン”に抱きがちな派手なイメージは、甲州氏のセールススタイルに見られなかったというのだ。

魔法のようなトークを巧みに操ることなく、セールスは淡々と進んでいく。だが、甲州氏の事前に描いたシナリオ通りに商談が運ばれていくのである。

綿密に準備されたシナリオには、最善だけではなく最悪のケースまでも盛り込まれている。とはいえ、これは収穫ゼロということではない。たとえば法人保険を預かることができなければ、個人保険の提案をする。それも無理なら、知り合いの社長を紹介してもらう。お互いに大切な時間を費やして成果がゼロでは仕事とは呼べない。甲州氏はこう語っていた。

「プロである以上、手ぶらで帰ってきてはいけない」

IT化以前の新人時代、提案書の手づくりに甲州氏は追われていた。どんな展開にも対応できるよう、一件の商談ごとに16種類の提案書を用意していたのだ。商談当日、家計を預かる夫人からの細かい要望にも、即座にこう応じた。

「そんなこともあろうかと思いまして、もう一案だけご用意して参りました」

甲州氏にとって準備とは、“顧客を思う時間”だったのではないか、とある後輩は感じている。それは甲州氏のこんな言葉からも、うかがい知ることができる。

「商談と商談のあいだがいちばん大切!」

「オレはマンホールの上は歩かない」

甲州氏は仲のよい後輩に、そう語っていた。蓋が外れて落っこちでもしたら、ケガをしてアポイントに間に合わなくなるという理由である。ほかにも、

「古い油でお腹を壊してアポイントに遅刻したら困るから、天丼は衣を外して食べるようにしてるんだ」

「お宅の前に50円玉が落ちていましたので、お届けに参りました!」

など、一度聴いたら忘れられないような、印象深いエピソードは数知れない。

「商品ではなく自分を売り込め、キャラクターを売り込め」

甲州氏はつねに後輩たちに繰り返していた。会社のブランドを超えた、パーソナルブランディングの大切さに、早くから気付いていたのであろう。

ある法人顧客はこう述懐した。

「彼は、いいアクター(俳優)だったんじゃないのかな。でも、それが心地よいわけ。陰では苦労もあっただろうけど、それを見せることは決してなかったよ」

甲州氏自身のこんな言葉もある。

「今日は暑いですね、ではなく、今日はハワイみたいな天気ですね、と言ってみる。どうしたら相手の心の中に自分の言葉が残るのかを、考えなければいけない」