パナソニック創業者●松下幸之助
「自らの感動をスケッチする」
松下幸之助(当時、松下電器社長)は、1951年の初の訪米中、全社員に向けて手紙を16通送っている。その内容は社内報「松下電器時報」に順次掲載された。そこではたとえば夜の街のあちこちに点灯する広告を「光、光、光で目をうばわれるばかりです」と表現、その感動ぶりがうかがえる。松下はこのほかテレビの普及や女子工員の月給の高さなどアメリカの繁栄ぶりを事細かに伝えた。同時に、「1日も早く日本もそこまでもっていきたい」などと理想を掲げている。彼は手紙で自らの感動を率直に伝え、日本を豊かな国にするという使命感を社員と共有しようとしたのだ。
クラレ創業者●大原孫三郎
「旅先から思いを伝える」
大原孫三郎は1923年、倉敷紡績社長として中国を視察旅行中に何度か妻に手紙を送った。大連からの手紙では、自分の後継者に決めていた長男・總一郎(当時14歳)について「内気者でない様にすることを心がけねばならぬ」(城山三郎『わしの眼は10年先が見える』新潮文庫)と説いている。このとき孫三郎は旅順で摘んだスミレの花を同封したという。孫三郎がこのような思いやりを妻に見せたことは日本ではなかったらしい。普段は面と向かって伝えられなかったことを、彼は旅先からの手紙にしたためたのだ。
三菱化学元社長●篠島秀雄
「厳しい言葉で愛情を示す」
三菱化成(現・三菱化学)で社長を務めた篠島秀雄は、妻宛てに結婚前も含め生涯を通じて400通もの手紙を送っている。「『信』がなくては何でも彼でも疑えば疑える。ゆっくり落着いて、療養第一に心がけること肝要」という手紙を送ったのは1941年、篠島が田辺製薬に専務として入社した直後のことだ。このとき彼は激務から入院していた。前後して妻も体調を崩し、病床で読んだ小説が原因で男性不信に陥って、それを夫との面会時に口にする。先の手紙はそんな妻を見舞ったものだ(中丸美繪『君に書かずにはいられない』白水社)。彼としても手紙を書くことで、心に余裕を取り戻せたのだろう。なお篠島は後年、日本サッカー協会の副会長も務め、競技の普及に尽力している。