ダイエー創業者●中内功 
「相手の言葉を繰り返す」

1995年、ダイエーの社長だった中内功(いさお)は経営学者のドラッカーと書簡を交わすなか、阪神・淡路大震災に遭遇する。中内自身は東京在住だったが、神戸はダイエー創業の原点であるだけに多くの店舗や社員が被害を受けた。ドラッカーは震災当日に中内へ見舞いのファクシミリを送ったのに続き、半月後には亡くなった社員のため弔電を送った。これに対し中内は「あなたは、『物の損失はやがて回復され、忘れることもできます。しかし、チームの仲間、社員を失ったことは、けっして忘れられないことです』と書いて下さいました」と感謝を述べた(ドラッカー、中内『挑戦の時』ダイヤモンド社)。相手の言葉を繰り返したのは、自分に言い聞かせる意味合いもあったのだろう。同じ手紙のなかで彼は復興への決意も誓っている。ドラッカーとの往復書簡から、社会に対し企業が果たすべき役割と精神を学んでいた中内にとって、震災は期せずして実践の機会となったのだ。

東映元社長●岡田 茂 
「対立の記憶も隠さず述べる」

1985年に亡くなった旺文社創業者・赤尾好夫の葬儀で、東映社長(当時)の岡田茂しげるは弔辞を読み、故人とかつて対立したことにも触れた。

1957年のNET(現・テレビ朝日)設立時に共に出資した東映と旺文社だが、やがて岡田の前任者の大川博と赤尾の不仲からその関係は悪化する。新たに社長となった岡田はその改善のため赤尾に協力を求めるも、はかばかしい返事はもらえなかった。岡田はついに腹をくくると赤尾と面会し、大川との件で謝るべきところは謝るが、それでもなお東映の邪魔を続けるなら「きょうをもって私の最後のご挨拶にする」と告げたという。このときの赤尾の反応を、岡田は弔辞のなかで「あなたはあの例の炯々(けいけい)なる眼差しで私を見つめ、君のことを調べて人柄も判ったから――と、一転して協力を約して下さいました」(『弔辞集』日本経済新聞社)と述懐している。あえて苦い思い出をあげることで、赤尾の懐の広さや、また両者の人間としての信頼の深さも伝わってくる。