危機感がマツダ営業方式を強力に推進した
この名称は“方式”ながら、その内容は一人ひとりの“意識改革”であることに気づいたなかに、当時九州マツダの社長を務めていた福原和幸(現・常務執行役員 国内営業・法人販売担当)がいる。
「それまでは、販売会社ごとに方針はいわば“十人十色”で、統一されていなかった。九州マツダで独自の方針をたてるよりも、全国で共通の方針で貫ける稲本の考え方に共感し、歓迎した」
稲本と違って福原は1981年マツダ入社以来、販売・営業畑一筋。だから、と福原は言う。
「内部の人間の常識は非常識。畑違いの稲本が本部長になったことで、今までわかっていても十分に踏み込めなかった実のある改革を積極的に推進できたと思っている」
過去のしがらみがないからこそ、思い切った決断や判断ができる、とはよく言われることであり、この実例は他の自動車会社にも存在することはよく知られている事実だ。稲本の「マツダ営業方式」も、まさにそれだった。その考えに福原も乗った。
福原に限らず、他の販売会社の社長、あるいは経営者の立場の人たちも、このときすでに稲本流の改革の要求を受け入れる意識の高まりがあったはずだ。そのきっかけはあのリーマンショックだ。2008年9月にいきなり景気が減速、ご多分に洩れずマツダも業績が急降下する。クルマは売れない。それまで7年間、つまり2001年から2007年度まで右肩上げで順調に業績を伸ばしてきたにもかかわらず、一転、715億円という巨額赤字を計上するまでに落ち込んでしまう。何とかしなければという危機感がマツダ営業方式の具体化作業の強力な後押しになったことは間違いないだろう。