現場から乖離した「エリート」の観念
これに対し、真珠湾作戦は先制攻撃であり、基本戦略とは矛盾するものだった。ただ、真珠湾作戦において、連合艦隊司令長官山本五十六大将は、空母を中心とする機動部隊による「空海戦(エア・シー・バトル)」という新しいアイデアを発案した。それは太平洋戦争のその後の展開を予告するものだった。
従って、奇襲の主目的は空海戦の“動く基地”である空母の殲滅にあった。しかし、奇襲時、真珠湾には敵空母を一隻も発見できず、再攻撃も試みないまま作戦は終了する。
続くミッドウェー作戦においても、敵機動部隊撃滅を目指した山本長官の戦略と、ミッドウェー島占領を主目的とした機動部隊との間で整合性が欠如した。それは山本長官が作戦部隊との間での開かれた対話に注力しなかったことに起因した。
戦争とは、敵対する軍同士の知識創造力の戦いでもある。新たな知は、経験に基づいて暗黙のうちに持つ主観的な「暗黙知」と、言葉で表現できる客観的な「形式知」が、対話を通して相互に変換し、スパイラルに循環していくなかで生まれる。このプロセスにより、知識は個人、集団、組織の間を循環し、より豊かに増幅されながら、新しい価値として具現化されていく。これが組織的な知識創造の基本原理だ。その点、山本五十六は考え方の異なる相手との対話は好まず、自らの暗黙知を形式化して共有する開かれた対話を行うタイプのリーダーではなかったといわれる。
対照的に、米国軍は常に開かれた関係性を維持し続けた。日本軍では陸海の統合戦略がうまく機能しなかったが、米国軍では統合参謀長会議が機能し、陸軍と海軍が互いに独自の作戦を主張するなかで全体最適の作戦が選択された。ルーズベルト大統領も衆知を集めて、最後は自分が責任を持って決断する「衆知独裁」的なリーダーシップを発揮した。
日本軍の閉じられた組織においては、人事の機動性も失われた。海軍では兵学校の「ハンモックナンバー(成績に基づく卒業席次)」で将官人事が決まり、定期異動が基本でミッドウェー作戦直前に艦隊人事で異動があるなど柔軟性を欠いた。
陸軍では士官学校の成績優秀者が陸軍大学へと進んで参謀となり、その参謀の人事権は参謀長が握った。両軍ともに成績優秀者が超エリート集団を構成した結果、作戦においては、現場から乖離した机上の観念論が跋扈した。現場には実践知に優れた指揮官もいたが、参謀が意思決定に介入する「参謀統帥」の異常な組織構造が出来するに至ったのだ。
米国軍は「特別昇進制度」により、作戦特性に適した人材を特進させて任務を遂行させ、終了後に元の階級に戻す柔軟な適材適所の機動的人事を実行した。第一線の高級指揮官には人事権が与えられ、実績を出せない部隊長は次々と組み替えられた。失敗しても温情人事がまかり通る日本軍とは歴然とした差があった。