食っていけない子どもが育つ「家の環境」
多くの子育ての悩みに接していると、ある共通点のようなものが見えてくることがある。
「このご家庭とこのご家庭は雰囲気がなんとなく似ているけれども、お悩みのポイントも似ているなぁ」という事例が交錯することがあるのだ。
例えば、子どもが引きこもりになったり、登校拒否になったりしたために、相談を受けることも多いが、その過程で独特な「ご家庭のにおい」を感じることも、また多い。ケースによっては、思春期はなんとかクリアしても、大学生・社会人となって突如、無気力になったり、ニートになったりするケースも少なくない。
もちろん、その「芳香」を発していたから、すべてがそうなるとは言えず、引きこもりも登校拒否もニートも「当人の事情」ということも十分有り得るし、徐々に回復することも多い。
ただ、「ハザード」という潜在的に危険因子となり得るものを知り、「リスク」という現実に危険になるものを回避することは子育てにとっても、重要な意味があると思う。
今日は私が感じる引きこもり・ニートの子ども、すなわち自立し自分で食っていきにくい子どもを生みやすい「独特なにおい」を持っておられるご家庭の共通点を挙げてみたい。
正反対に、子どもを健全に育て、食っていける大人に育てる家庭とは、さしづめ、そうしたリスクを未然に回避し、後述するような一見どうってことないけれど、シンプルかつ強いポリシーを持つ親だということになるのだろう。
(1)好きなメニューを選ばせない親
ある時、私はあるご家庭とロシア料理を食べに行った。メンバーは50代の父母とその大学生の息子、私である。父親は私にご馳走してくれる気、満々でその店で一番高いコースを勧めてくれた。確か、壺焼きが付いていて、その中身が蟹だったりベーコンだったり、チーズだったりで7種類くらいから選ぶシステムだった。
その息子は少し迷って「ベーコン」を選択した。すると父親がこう言ったのだ。
「なんでベーコン? この場合、(正解は)蟹だろ? 蟹?」
今度は母親がこう応じた。
「そうよ、せっかくなんだから蟹にしなさい、蟹に!」
その息子がこう言ったのを私は忘れない。
「じゃ、蟹で……」
その場で「大変だね、君も」と応じた私にその息子が今度はこう言った。
「まあ、いつもどおりですよ。(俺の)意見は(通ら)ないんで……」
親子の暗黙の了解にクビを突っ込んでしまったバツの悪さたるや。ただ、この私が感じた「違和感」をこの子の両親は露ほども感じていないことだけは確かだ。その場で一番価値が良いものを選択して、それを勧めて、それを掴ませる。何が問題だろうか? という態度であった。
私が言うまでもなく、人生は常に取捨選択の連続だ。プライオリティーを自ら決めて、実践していく、人生はその繰り返しなのだ。その中で自分自身の価値観、やり方を学び、構築していくのである。
この息子によると小さいころから自分には選択権がなく、勇気を出して申し出たとしても「正論で潰される」。いつしか自分の意見はなくなったと言う。親の意を汲み、優秀大学に入ったものの、大学にはどうしても足が向かないという彼。
在籍する大学は聞こえが良い有名校で、就職も好調で、親も満足。けれども肝心な自分には全く興味が湧かない場所だと言う。
「(自分の居場所は)ここじゃない!」って感覚に襲われるのだそうだ。
「じゃ、自分の求めるところに行けよって思いますよね、普通。でも、俺にはそれがわかんないんですよ。感情がないって言えばいいのか……。俺は誰だ? って感覚っすかね……」
例えファミレスだろうと、幼かろうと、自分の食いたいものは自分で選ぶ。
「蟹」と「ベーコン」の2択だとして、我が子が「ベーコン」を選んだならば、何も言わずに「ベーコン」をオーダーする「肝」がない家庭は「リスク」が増大するのではないか。