【竹田】古事記には初代神武天皇のご即位の経緯から第33代推古天皇まで、それぞれの皇嗣(天皇の子)たちがどこの豪族のご先祖様になったのかが書かれています。33代までを見ただけでも、東北から九州南部まで、ほぼ全国的に地名を網羅している。日本各地どこに住んでいようが皇室の血筋というのは2600年前からシャワーのように降り注いでいるので、県とか関係なしに同じレベルで日本人の血筋は必ず天皇にたどり着くと。
【渡辺】さらに、長い歴史のわが国では、天皇家だけでなく戦国武将や平安貴族とも私たちは血がつながっているはず。だから歴史を勉強する際に、天皇や時代の主人公が自分たちのご先祖様なのだという意識で見ると、臨場感がまるで変わってくる。歴史が動いた決断を自分だったらどうしていたか、どんな気持ちだったのかと感情移入して考えるだけでもワクワクしてきます。でも、学校の歴史の授業は物語ではなく、いつ、何が起こり、どうなりました、という原因と結果に焦点が置かれ、「ここは試験に出るので覚えてください」となってしまう(笑)。
【竹田】それは「日本史」という教科の呼び方にも表れています。海外ではナショナルヒストリーと呼ぶ、つまり「国史」です。日本史という呼び方には自分たちの歴史という意識が希薄です。
【渡辺】他国だったら「わが国は」とか、「我々は」というように、本来は一人称で言うべきことを、「日本という国は」と、客観的に言ってしまっているようなもの。現代日本人の自分たちの国に対する冷めた考え方は、そういった教育が影響しているかもね。
【竹田】それは多分サラリーマンでも一緒だと思うのです。自分の会社のことを「うちの社が……」と話す人と、「この会社は……」と話す人とは、働く意識が全然違うはずです。アメリカの教科書を取り寄せて読んでみたことがあります。例えば先の大戦の記述は、手に汗を握るような書き方なんですよ。日本にこういうことされて、こんなことされて、うわあ、こんなにやられたんだ、でもここで起死回生となって、おお、頑張れ、みたいな感じで(笑)。アメリカが歩んできた歴史の中の光と影っていうものをちゃんと見たうえで、それでも自分たちの歴史っていうことで誇りあるアメリカ人への教育になっているわけですよね。ところがそれを読んだあと、日本の教科書を見ると、もうフルボッコにされているにもかかわらず、すごく客観的なんですよ。それには何の高揚感も、一切の絶望感もなく、淡々と。もしアメリカの教科書のようなテンションであの戦争のことが書かれていたら、最初の日本の快進撃、うおお、みたいな形で記述してあるはずです(笑)。