MRJの事業会社として2008年に設立された三菱航空機でプロジェクトのまとめ役を務める岩佐一志経営企画部長は語る。
「世界に向けてビジネスができる旅客機を日本がつくったのは、YS-11の一度だけ。採算ラインにはほど遠い182機で73年に生産が打ち切りになり、今日では日本製の旅客機はほとんど飛んでいない。旅客機事業それ自体はビジネスそのものですが、飛行機をつくって飛ばすことは、子供心をくすぐられるような夢への挑戦でもある。日本にわくわくする新産業を創出すること、航空宇宙に夢を持つ優秀な若者に日本で活躍の場を提供することなど、いろいろな面で大きな意義もあると思う。重圧はとても大きいが、何とかして成功させたい」
国産旅客機MRJの計画が本格的に前進し始めたのは10年前の03年。設計開始は08年で、3年後の11年には初飛行にこぎ着けられると踏んでいた。
が、その後、計画は遅延に遅延を重ねた。当初の計画では13年、完成した初号機を航空会社に納入することになっていたのだが、09年に設計の大幅な見直しを行うことになり、初飛行予定は12年へと遅延。その12年には初飛行をさらに1年以上先延ばし。そして2013年8月、初飛行を15年、納入は17年に延期するというスケジュールの修正を発表した。
航空機開発の世界では、スケジュールの見直しは日常茶飯事だ。今日の最新鋭機であるボーイング787やエアバスA380も、顧客への納入は何度も遅延。航空会社からは壮絶なブーイングを食らった。
が、MRJの遅延は航空機世界大手のそれとはまるで意味合いが違う。実績ゼロで、これから顧客の信用を獲得してかなければならないという立場で何度も計画を修正するというのは、かなりのダメージである。