まさかの敗戦&年齢オーバーで退会

今泉氏が将棋を覚えたのは、小学2年生の時だ。

「2年間は父と縁台将棋レベルの勝負。父もアマチュア5、6級程度ですが、全然手を抜いてくれなくて。成績もこまごまつけていたんですけど、全部バツで97連敗(笑)。それでも止めなかったのは、たぶん負けるのが悔しかったんだと思います。とにかく勝ちたい、1回勝つまで止められないっていう意識が強かったんだと思います」

将棋ほど負けて腹の立つゲームは、そうあるものではない。

「小学3年生になって初めて父に勝ったときはもう、小躍りしてガッツポーズですよ」

小学4年生の時、近所に在住していた将棋連盟福山支部の支部長の自宅兼将棋教室で週1回、基礎からじっくりと教えてもらったことから徐々に腕を上げていった。決して速いペースで強くなったわけではないというが、「中学1年のとき、広島の少年たちで自分より強い人はあまりいないのかなという意識があり、さらに強い人を求めた延長線上にプロがあって」、奨励会の下部組織である関西研修会に入会、14歳で関西奨励会に編入された。

奨励会は、全国から集まったアマチュア四段・五段クラスの小中学生がふるいにかけられ、プロ6級としてスタート。一人前のプロ棋士である四段に上がるまで切磋琢磨が続くのだが、21歳、26歳の誕生日までに各々初段、四段になれなかった者は退会という厳しい規定がある。制度の変遷による違いはあるが、屋敷伸之九段、羽生善治四冠、村山聖九段(故人)らのような3年前後でスピード卒業する俊英がいる一方で、十数年在籍する会員も珍しくなく、実に7割強が年齢オーバー、もしくは己の才能に見切りをつけて別の人生を歩む。

今泉氏は月2回、新幹線で大阪の関西将棋連盟に通いながら17歳で初段、20歳で三段リーグの一員に。半年に18戦のリーグ戦を戦い、トップの成績を上げた2人、年に4人だけという狭き門を巡って、それこそ精鋭たちが目を血走らせ、互いを削り合う世界である。

次点の3位で昇段を逃すこと2回。惜しいところまで行きながら足踏みが続き、とうとう26歳が目前となった99年、引導を渡された相手は、皮肉にも同じ広島県出身の後輩だった。

「片上先生(大輔、現六段)。片上君には、少年の頃から僕が指導していた感覚があって、負けた記憶がほとんどない。練習対局は腐るほどやりましたが、真っ赤な顔で挑んでくる片上君を『可愛い奴』とあしらうような感じ。多分、勝率は僕が9割を超えていると思うんです。あの対局当時は片上君が三段まで上がってきたばかりで、『負けるわけない』と勝手にタカを括っていました」

まさか、ですよ――今泉氏の声が少し上ずった。

「まさか自分が負けて退会するなんて、いざその瞬間を迎えるまで思ってもみなかった。それなりに自負もあるから、実力を変に過信していたところがありました。片山君とはレベルにまだ差があると思っていたこの時点の敗戦は、凄いショックでした」

ああ、自分はプロになれないんだなと思った、という。次の対局が最終戦。同じく退会の決まっていた相手と深夜に及ぶ大激戦を繰り広げた末、敗れた。三段リーグでの最終的な順位は15位だった。

「技術的にも低かったし、精神的にも未熟だったと思います。負けた時にその原因を徹底的に突き詰めるとか、そういう強さもなかった。ただ単に将棋に甘えていたんですね。そういったことに気付くまで、随分と時間がかかりました」