本田技研工業の創業者である本田宗一郎は、スピーチが面白いことで定評があった。
柳生という家の令嬢の結婚式では、「柳生家のことなら、何でもわたしにお訊ね下さい。わたしは昔から物凄く勉強してきたんだから。それも、先生に隠れてまで、立川文庫の豆本で勉強してきたから、絶対まちがいありません」と話して、笑いを誘った。なお立川文庫とは、明治から大正にかけて出版された少年向けの講談本である。
本田の話術は、社員を鼓舞するのにもおおいに発揮された。ホンダ創立からまもなく、浜松から東京に進出した1950年頃には、ミカン箱の上に立って「日本一になるなどと思うな。世界一になるんだ」と絶叫した。社員の給料も満足に出せていなかったが、本田の目はすでに世界に向けられていたのだ。54年には、世界中のオートバイ関係者が技術を競い合うマン島TTレースに出場し優勝することを目標に掲げる。会社が経営不振に陥っていた時期にあって、何とか社員を奮い立たせようという宣言だった。
本田はまた「水泳の古橋(廣之進)選手のように、日本人の心に希望を与えたい」とも語った。『古橋廣之進 力泳三十年』(日本図書センター)に書かれているように、古橋は戦後の劣悪な食糧事情や練習環境のなかで猛練習を重ね、世界記録を次々と出した。本田は、古橋の持つ体力の代わりに技術力をもって、欧米諸国に打ち勝とうと考えたのだ。
5年後の1959年にようやく初出場したマン島レースでは、125ccレースにおいて6位入賞を果たした。61年には125ccと250ccと念願の完全優勝を達成、ついにホンダの名は世界に轟いたのである。
本田はあまり本を読まなかったという。それでも彼の話には人の心を捉える力があった。それというのも、本から引用した言葉ではなく、粗野ではあるが、柔軟な発想や体で得た体験にもとづく生の言葉を用いていたからだろう。