日本でITの仕事をしているとヤバい

現在のような生活スタイルに辿り着くまでには、もちろんいろんなことがありました。

僕は東京の上野にある公立高校に通って、早稲田大学理工学部を卒業した後に日本オラクルという会社へ1999年に入りました。そこではセールスエンジニアという仕事をしていまして、オラクルのCD 1枚3000万円みたいなソフトウェアを、ソニーとかパナソニックや日産といった企業に売り歩いていました。それこそ吉野家からIHI、牛丼を製造する工場から宇宙船の工場まで訪ね歩いたものです。

オラクルには7年間勤めて、次に転職して働いたのが日産自動車です。日産で担当したのはグローバルのサプライチェーンシステムを作る仕事。世界中の工場で、どれだけの部品がどの工場にいくつあるかが分かるようにするシステムですね。海外8カ国の共同プロジェクトだったので仕事の8割は外国人が相手でした。このあたりから「海外で働く」というテーマが自分の中に出てきたんです。

それまで僕はオラクル時代も含めて、英語は全く得意ではありませんでした。一度だけ英語でプレゼンをする必要があったのですが、もう全然喋れなくてボロボロでした。説明ができないから、パワーポイントの絵を指さして「like this」と言って切り抜ける最悪のプレゼン。その程度だったんですよ。

それが変わったのは、20代のうちにどうしても世界を旅しておきたくて、日産をやめて海外を旅行で回ったからでした。ちょうど2008年、中国バブルの華やかな頃だったし、1カ月くらいであれば帰ってきても仕事はあるはずだと気軽に始めた旅でした。

ところが、ちょうどアメリカに行ってニューヨークにいたとき、リーマンショックが起こったんですよ。これには参りましたね。以前からサブプライムローンの問題は言われていたわけですが、確かにこれが弾けたらヤバイよね、と他人事みたいに考えていたら、その日の「ニューヨークタイムズ」を見て凍り付きましたよ。宿に戻ってCNNを見ていると、まるで世界が終わったみたいな報道が続いているんですから。

一応、数日後にリクルートエージェントの担当の人に電話をしたら、「とくに外資系企業の求人は当分ないので、いま帰ってきてもあまり状況は変わりません。来年にでもまた来てください」と言われちゃいました。それで旅が長くなったんです。急いで帰っても転職活動が難航するのは目に見えているし、しばらく遊びながら事態が落ち着くのを待とう、って。

当時の僕は日本に帰ってきた後、日本の小さなIT企業で2年間ほど働きました。この頃はまだ海外で働こうと考えてはいなかったのですが、その会社で製造業向けのシステム開発をしていると、だんだんと将来が不安になってきたんです。

どんなクライアントと仕事をしていても、決まって担当者から依頼されるのは「今度、この業務を中国工場に移管するから、そのためにシステムを改良してください」という業務でした。その言葉を聞く度に、これは日本国内で製造業向けのITの仕事をしているとヤバイな、と思いましたよね。システムエンジニアの仕事には、プロジェクトの予算が減って人員が減り、それだけ個人の負荷が増えていずれ体を壊す、っていうゴールデンパターンがあるわけです。完全にそのパターンに自分がはまっていることに危機感を覚えたんです。