日本経済は消費税増税の逆風を乗り切り、株価は再び上昇局面に入ったようだ。2020年の東京オリンピックを控え、各社、攻めの経営が目立つ。少子高齢社会のなかで、企業はどこへ向かうのか。新たに経営トップの座についた人物を解剖し、未来への展望を開く。
廃棄損を恐れず、生産性アップを徹底
相次いで業績不振に陥った電機業界だが、「優等生」と呼ばれる三菱電機は「強い事業をより強く」を掲げて構造改革に取り組み、いち早く苦境から脱出した。だが、柵山正樹社長は「もう一段高い成長を目指す」と意気込む。家電から宇宙開発まで事業領域は広範囲に及ぶが、本流の電力部門で鍛えられた手腕が試される。
――技術者が出発点?
【柵山】37年の社歴のうち33年間、電力システム事業に携わってきた。入社当時の日本は、自前で造れるものは自動車ぐらい。大半は海外からライセンスを受けていた。最初はエンジニアとして発電機の設計開発部門に配属されたが、その発電機も米国企業からのライセンスを受けて製造していた。独立した技術国と呼べないのは悔しく情けなく、独自の技術で発電機を作りたいという思いを強くした。
――そこで海外経験を?
【柵山】入社6年目に米国企業との交換留学に参加した。1年間だが、貴重な経験だった。選抜された技術者4人で渡米したものの、滞在先はバラバラで研修も一人ぼっち。次第に度胸もすわっていった。今にして思えば、商談などで外国人と接しても動じないのは、異文化に飛び込むチャンスを若い頃に与えてくれたからだと感謝している。
――思い出に残る仕事は?
【柵山】回転機製造第一部長だった2002年、現場をもっと強くしたいと思い、「床面積の生産性を上げよう」をスローガンに不用品を片っ端から処分した。ちょうど会社が「棚卸資産の削減」「現場改善」を言い出した時期と一緒だった。全社的に生産現場を指揮していたのが前社長の山西さん(健一郎氏、現会長)で、事業所によっては抵抗勢力も多かったと聞いている。
当時、電力システム事業の業績は低迷し、生き残りは困難なうえ、工場内には古い金型などが所狭しと積まれている。捨てれば廃棄損が計上されるが、帳簿より現場を優先した。結果、工場内の見通しがよくなっただけでなく、業績の改善にも結びついた。このためか、山西さんは私のことを「現場・現実・現物の“三現主義”で動く人間」と評しているようだ。