信頼されるビジネスマンになるためには、赤っ恥をかかないように日本語のトレーニングも必要だ。

一般的な学生が敬語と本格的に接するのは就活のシーズンから。そして新入社員教育で敬語を叩き込まれる。

「社会と対面するときに初めて敬語が必要になってくる。社会に入るための作法ができているかどうかをテストされるので、積極的に作法を勉強するのです」(言語学者・滝浦真人さん)

作法に従っておけば、そこに必ずしも敬意がなくても怒られることはない。規範に従っていれば合格点をもらえる。

「敬語を使うほうも使われるほうも便利だったのです」(滝浦さん)

ビジネス文書のお手本を見ても、こう書いておけばマナー通りで間違いないという作法集。失敗をしないことが最優先のマニュアル的というか官僚答弁のような、よそよそしさだ。言葉の魅力よりも安全運転。言葉とは本来コミュニケーションのツールのはずなのだが、お作法と化してしまっているのである。

最近の若者はおかしな日本語を使うと嘆く人は少なくないが、その言い回しがなぜ生まれたのかが語られることは少ない。

「そんな日本語はない、というのは知っている作法にその使い方があるかないかの問題。ともすると、その人が何を伝えたいか、話の内容は二の次になりかねない」と滝浦さんは言う。

例えば1990年代頃から登場し、その言い方はおかしいと批判された「私って○○じゃないですか?」という言い回し。もともとは「約束したじゃないですか」というように、相手を詰問する言葉遣いだったが、共感を促す言い回しへと変化した。

「この言い回し、関西弁には存在していて『うち、長女やんか』(相手は自分が長女であることを知っている)、『うち、長女やねんやんか』(相手は長女であることを知らない)という具合に使います。押し付けがましいと批判されている『~じゃないですか?』という表現が消えずに、むしろ定着しつつあるのは使い勝手がいい、つまり、必要から生まれたのだと思います」

共感を促す。つまり相手との距離を縮めようという働きだ。コミュニケーションでは、かしこまることも親しくなることも必要なのにもかかわらず、かしこまることはできても親しくなる物言いが標準語には欠如していると滝浦さんは指摘する。

「関西人が東京に出てきても関西弁を手放さないのは、関西弁でできるコミュニケーションが標準語だとできないからです」

標準語ができて100年。作法としての標準語・敬語に、そろそろ限界が出てきているのではないかというのが滝浦さんの意見だ。