「マラヤの独立」を助ける
そんな組織に、共産主義者でもない二人が加わったのはなぜか。
もっとも大きな理由は、勧誘に現れたゲリラから教えられた原爆のことであった。メディアの取材に応じた二人は、参加した経緯を、こう語っている。
【田中氏】肌の色が同じということもあって、マラヤの独立を助けてやろうという気持ちがありました。それから日本に原爆が落とされたということも大きかった。あのことで、白人の敵に降参しない、投降しないという決心になりました。
【橋本氏】原爆のことを聞いて、どうしてもマラヤ独立を成功させなければならないと思いました。マラヤの独立というのが世界の平和につながると私たちは考えたんです。(『週刊現代』1990年1月27日号)
こうして、参加した日本人たち。この間まで抗日闘争をしていたというのに、ゲリラたちは日本人を快く受け入れたという。田中は、このことをこう語っている。
「なにしろ、日本はマラヤを侵略したんですからね。日本人がマラヤに来てやったことはいいことではありません。でも、私たちが、彼らと一緒に独立戦争を戦うことで、日本人にも、こういう人間がいるんだな、と思い直してくれたとは思います」(『週刊現代』1990年1月27日号)
苦しすぎるゲリラ戦「ネズミも食べましたよ」
もちろん、ジャングルに潜んでのゲリラ戦は生やさしいものではなかった。とりわけ食料には困難を来す時期もあった。橋本は「象の肉も食べましたし、虎の肉も食べました。それから鹿もイノシシも、食物の不足している時には、ネズミも食べましたよ」と語っている。
そんな苦しい戦いの中で、参加した日本人たちは次々と斃れていった。二人は共に戦った日本人たちのことをよく記憶しており、ある者は戦死、ある者は病死したと名前を挙げて語っている。
驚くのは、外務省は早い時期からこうした日本人たちの存在を知り、死亡の情報を得た際には遺族に死亡通知を送っていたことだ。しかし、そうした戦い続けた人々に対する国家の扱いは冷淡だった。
『週刊ポスト』1990年1月26日号には、1956年に戦死したと外務省から通知を受けた、元日本兵の家族を訪ねて、話を聞いている。
「戦死じゃなくて、共産軍に加わって死んだのだから、靖国神社にも護国寺にも入れて貰えませんでした。軍人として5年以上もお国のために尽くしたのに。同じ理由で恩給も扶助料もまったく貰えませんでした。死んだ母親は『これでは犬死にやった』とがっかりしていました」

