「日本の敗戦」を告げたのはゲリラ

二人が戦後も戦い続ける道を歩んだのは、運命のいたずらともいうべきものだった。田中は、1912年生まれ。小学校を卒業後、タクシー会社の修理係として働いており、終戦時には妻との間に二男一女があった。橋本は1918年生まれで中学校卒業後に税務署に勤務していた。

45年ぶりに帰国、手を挙げて出迎えの人たちに応える橋本恵之さん(左)とホッとした表情の田中清明さん。2人はタイ、マレーシア国境のマラヤ共産党の反英独立闘争に身を投じ、熱帯のジャングルでゲリラ活動を続けていた=1990年1月13日、成田空港
写真=共同通信社
45年ぶりに帰国、手を挙げて出迎えの人たちに応える橋本恵之さん(左)とホッとした表情の田中清明さん。二人はタイ、マレーシア国境のマラヤ共産党の反英独立闘争に身を投じ、熱帯のジャングルでゲリラ活動を続けていた=1990年1月13日、成田空港

まったく接点のない二人が出会うきっかけは、英領マラヤ(現在のマレーシア)に建設された日系企業・日南製鉄(ケダ州)に入社したことだった。田中は、タクシー会社の後に勤めた三井鉱山の上司から「今の給料の4倍から5倍は貰える」と勧められて、橋本は視力が弱く徴兵されなかったところ、紹介してくれる人がいてというものだった。

この日南製鉄は、東南アジアに占領地を広げた日本軍の肝いりでできた企業の一つ。法人として許可されたのは1943年のこと。現地で田中は溶鉱炉の建設、橋本は経理を担当していたが、敗戦時にはまだ操業も始まっていなかった。

二人は勤め始めて、一年足らずで敗戦を迎えることになるが、製鉄所は人里から離れていたためか、みんな二週間後まで敗戦を知らずに仕事を続けていた。

そんな彼らに、日本の敗戦を告げたのはジャングルから姿を現したゲリラであった。『週刊現代』1990年1月6・13日号には、当時勤務していた社員の証言が掲載されている。

「終戦を知ったのは、マラヤ共産党のゲリラのスカウトからです。ゲリラは『日本は戦争に負けた。日本は新型爆弾(原爆)で跡形もなく吹っ飛んでなくなってしまった。私達と一緒に戦おう。カネもあげるし、女も抱ける!』と、ドルの束を見せながら、ゲリラの勧誘をしたんです」

日本軍と戦った組織に合流

突然の敗戦を告げられて、ヤケになって空に向けてピストルを撃つものもいたり、どうしようもない雰囲気の中で、8人が手を挙げた。田中によれば、会社にあったライフル112丁と弾薬2000発を持って、トラックでゲリラに合流。既にあちこちで勧誘を受けて参加した在留日本人や元日本兵など、全部で100人あまりがいたという。

そもそもマラヤ共産党(CPM)とはどんな組織だったのか。

1930年、英領マラヤで華人系を中心に結成されたCPMは、太平洋戦争中は「マラヤ人民抗日軍」を組織して日本軍と戦った。皮肉なことに、これが田中や橋本の雇用の後押しをした日本軍と戦った組織である。

戦後、一時期はマラヤ全土を掌握する勢いだったCPMはイギリス軍が戻ってくると折り合わず、やがて反英武装闘争を激化させる。

その後、1957年、マラヤ連邦がイギリスから独立を達成すると、CPMは岐路に立つ。彼らの最終目標はあくまで共産主義国家の樹立であり、独立はゴールではなかった。CPMからすれば「イギリスの傀儡政権が独立しただけ」である。武装闘争は続いた。

さらに民族問題が対立を深めた。CPMはほぼ華人系の組織だった。独立後の政府はマレー人優遇政策を取っており、華人系のCPMへの警戒感は独立後も消えることがなかった。こうして、CPMはタイ・マレーシア国境地帯のジャングルに潜んで、1989年の和平まで闘争を続けることになる。