挫折した時にすぐに立ち上がろうとする

野口にはもう1つ、大きな成功を達成するのに不可欠だったと考える要素がある。彼はよくこんなことを口にする。

「挫折した時にすぐに立ち上がろうとする人こそが、成功できる人である」

失敗や挫折を経験しない人はいない。そして野口自身も、それを繰り返し、乗り越えてきた。野口の人生は波乱に満ちている。

野口は渡米後1年で結核に罹る。そしてそれから1年半の入院生活を強いられた。そんな状況でも、野口は「英語習得と医師免許試験に向けたいい機会だ」と考えた。しかも少し病状が良くなると、患者でありながら、自らが入院する結核の専門病院でインターンとして働けるよう医師に直談判した。状況が悪くなっても自暴自棄にならず、すぐに気持ちを前向きに整理したのだ。

局長就任後すぐの罷免裁判の様子

その後、検視局に入局した野口は、マリリン・モンローやロバート・ケネディなど世界の目が集まる検視を次々と成功させ、1976年にはロサンゼルス検視局の局長に就任。当時、全米で白人ではない日本人が公的機関の局長クラスに就く、というのは史上初めてのことだった。だが検視局長に就任してまもなく、白人医師たちからの圧力で、野口は検死局から追い出されてしまう。

当時のアメリカでは非白人に対する差別は露骨だった。特に戦前にアメリカに渡り、戦中に厳しい差別を受けた在米日本人は、戦後も白人からのあからさまな差別に声を上げることなくじっと耐えていた。野口は自らの罷免に直面し、日本人コミュニティの代表としての責任を背負いながら、白人社会に真っ向から立ち向かった。

白人医師たちは、まさか日本人である野口が自分たちに歯向かうとは思っていなかった。自己主張をしない日本人なら、自分たちの圧力に屈するだろうと考えているふしがあったと野口は語る。

彼は、「アメリカには学びにきたのではなく、日本人としてアメリカという世界でトップを目指す」という強い信念を持っていた。それを実現するために、泣き寝入りすることはしなかった。野口はやっとの思いで掴んだ局長の座を奪い返すべく、ロサンゼルス地区の公務員任用委員会に不服を申し立てる。3カ月に及ぶ罷免裁判は、メディアにも大きく取り上げられ、この結果、野口は罷免の不当性を証明して復職を果たした。