「優しさや親切やよろこびのしぐさを演じるならば、憂鬱な気分も胃の痛みもかなりのところ直ってしまうものだ」と語るアランは、「お辞儀をしたりほほ笑んだりするしぐさは、まったく反対の動き、つまり激怒、不信、憂鬱を不可能にしてしまうという利点がある」と分析しているのです。
僕は東日本大震災の被災地を何度か訪ねつつ、『幸福論』を読み直すなかで、いま次のように感じています。
津波で家が流され家族を失った被災地の方々にとっては、地元の祭りだ、季節の行事だ、誕生祝いだ、互いに訪問し合ってお喋りを、などと言われても、「それどころじゃない」「絶望のどん底なんだ」という気持ちでしょう。でも、そんなときだからこそ、アランの言うように儀式やお祝い、訪問が意味を持ってくるのではないかと思うのです。
たとえば東北6大祭りの1つとされる相馬の野馬追(福島県浜通りの祭り)も、昨年、実施か否かでだいぶ議論がありましたが、結局、規模を縮小して例年どおり行われ大きな拍手に包まれました。
まさにアランの言うように、それは幸福を演じるチャンスであり、われわれを悲劇から解放するのです。『幸福論』を読んだ僕がいつも自分に言い聞かせている言葉があります。
それは、「しあわせだから笑っているのではない。むしろぼくは、笑うからしあわせなのだ」という一節です。
家が貧乏で、医学部に行く授業料も生活費も全部自分で稼げと父親に宣告された僕は、学生時代、「どうやって生きていこうか」と思案しながらも、アランから学んで「笑わなくなったらおしまいだ」と考え、いつもニコニコしていました。それは現在も同じ。患者さんには笑顔のドクターと言われています。
人は自分が辛い状況にあると、次のように思い込みがちです。「あいつは、いいよな。幸せだから笑っていられる。俺は笑ってなんかいられるか」と。しかし、逆だとアランの言葉は語っています。「(自分のなかにある)よろこびを目覚めさせるためには、何かを開始することが必要なのである」と。「もしある専制君主がぼくを投獄(中略)したならば、ぼくは毎日ひとりで笑うことを健康法とするであろう」とも言っています。