皇室との関係から生まれた麻生氏の野望

現在の議論は、今や数が減少し、それが増えていく見込みの立たない「皇族数をいかに確保していくか」から始まったはずである。

そこから、女性皇族の結婚後の身分保持と、旧宮家から養子を取るという2つの案が出てきたわけだが、養子案は、すでに何度か指摘したように、女性天皇や女系天皇の実現を阻止するために持ち出されたものだった。

世論は、女性天皇や女系天皇を容認する方向に傾いているが、なんとかそれをはばみたい。しかも、それだけではなく、悠仁親王の先に、養子の子の即位が想定されている。どうも、麻生氏などの最終的な目的はそこにあるようなのだ。

もし養子の子が将来天皇に即位するようになれば、それを実現した功績は麻生氏のものである。85歳の麻生氏が、その実現を見届けるのは難しいはずだが、権力を持つ人間は、とかく自分を不死だと考える。

麻生氏の妹の信子妃が、三笠宮家の寛仁親王に初めて求婚されたのは1972年2月のことである。そのとき寛仁親王は26歳だったものの、信子妃はまだ16歳の高校生だった。それですぐに結婚にはならなかったのだが、その翌年、麻生氏は麻生セメントの社長に就任している。実業家だったわけで、衆議院議員に初当選するのは1979年、39歳のときだった。

信子妃が寛仁親王と婚約し結婚するのは、その翌年、1980年のことである。これで麻生氏は、皇室と深い関係を結ぶことになる。そのことが、今日にまで影響している可能性がある。

男子のいない宮家「三笠宮寬仁親王妃家」初代となった寬仁親王妃信子殿下(2017年撮影)
男子のいない宮家「三笠宮寬仁親王妃家」初代となった寬仁親王妃信子殿下(2017年撮影)(写真=防衛省/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

国民は望んでいない「平安時代の藤原氏」

寛仁親王と信子妃のあいだには彬子・瑶子女王の姉妹は生まれたものの、皇位継承の資格を持つ男子は生まれなかった。生まれていれば、今の時点で、秋篠宮、悠仁親王、常陸宮に次ぐ第4位になっていたはずだ。

その男子が彬子・瑶子女王姉妹と同年代であれば、30代か40代である。実質的に将来天皇に即位する2番手になっていた。

ところが、そうした男子は生まれなかった。麻生氏としては、そうした形で実現されなかったことを、旧宮家からの養子という形で実現しようとしているのではないか。すでに養子となる候補が内々に決まっているのなら、その可能性は高くなる。

妹が皇室に嫁がなければ、そんな野望を麻生氏が抱くことはなかったであろう。たまたまそうした状況が生まれたことで、現代の藤原氏になろうという野望が生まれた。御厨氏の指摘は、まさに真相を突いている。

ただそれは、国民が望むことではない。あるいは、天皇や皇族が望むことでもない。どこかで血がつながっているというだけで、皇族になれるとは思えない。それが、国民や天皇、皇族が思っていることのはずなのである。