1980年代、日本のパソコン市場はNECが支配していたが、その成功モデルはやがて限界を迎える。どのようにして復活を遂げたのか。東洋経済記者の山川清弘さんは「PC事業での敗北があったからこそ、同社は新たな武器で世界一にたどり着けた」という――。(第2回)

※本稿は、山川清弘『教養としての 三菱・三井・住友』(飛鳥新社)の一部を再編集したものです。

シリコンバレーのNEC本部
写真=iStock.com/Sundry Photography
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昔のパソコンはNECばかりだった

NECが住友グループの中心企業だと理解している方は、現代ではそう多くないかもしれません。公式な社名である「日本電気」にも住友の文字はありません。NECは1899年に米ウェスタン・エレクトリック社などの共同出資で設立された、日本初の外資合弁企業(複数の会社の出資で運営される企業)です。

始まりは通信機器メーカーで、一貫して日本のハイテク産業をリードしてきました。1977年には、当時の小林宏治会長が「コンピュータ&コミュニケーション(C&C)」戦略を提唱し、「第二の創業」と位置づけました。

これは、コンピュータ技術と通信技術の融合が社会を変えるという先見の明を示すものであり、NECはこれを軸に、コンピュータ、通信機器、電子デバイス(半導体)の三部門をバランスよく成長させ、一時は「世界のNEC」と呼ばれるまでになります。

しかし、この「C&C」の成功体験が、後の同社を苦しめる要因ともなりました。NECの栄光の象徴は、1980年代から1990年代初頭にかけて国内市場で大半のシェアを占めたパソコン「PC-9800シリーズ(通称:98、キュウハチ)」でした。

「自社が一番」という巨大企業の誤算

この成功は、部品まで自社で内製するビジネスモデルと、ソフトウェア・周辺機器メーカー(サードパーティ)を巻き込んだ独自のエコシステムによって支えられました。しかし、世界の潮流は、マイクロソフト(OS)とインテル(CPU)が標準規格を握り、製造は異なる企業が分担していくモデルへと移行します。

NECは成功体験と「自社で開発したものが優れている」という思い込みから、世界標準であるIBM互換機(DOS/V)への移行が遅れました。そしてそれが、NECの屋台骨を揺るがします。

1994年度にはパソコンの国内シェアが低下し、低価格攻勢をかけるDOS/V勢に急激に侵食されました。国内トップシェアでありながら、過剰在庫とサプライチェーン管理の遅れにより、パソコン事業は2000年度に72億円の営業赤字に転落しました。

この危機を受け、当時の西垣浩司社長は「このままではNECのパソコン事業はダメになる」とし、開発・生産子会社を統合した「デザイン・&・マニュファクチュアリング・サービス」(DMS)を設立。