帝大からの解雇通知に激怒
とりわけ東京に出てから疾走するように書き、暮らしてきた八雲です。しかし、突然、荒波に見舞われました。
『怪談』刊行の1年余り前、1903(明治36)年1月、帝大から、3月末で解雇する、という通知が届きました。
日本国籍を取っていても外国籍なみだった高給が災いしたと言われています。月給は着任当初400円でしたが、日本人なら80円ほどだったそうです。八雲の後任には英国留学から帰った夏目金之助(漱石)が就きました。
退学の覚悟を示して留任運動を起こした学生らもいて、新聞記者が取材する騒動になります。当時の文科大学長の井上哲次郎は八雲を訪ね、条件を下げたうえで再雇用したい、と取りなそうとしました。
ただ、突然の通告を受けて激怒していた八雲の気持ちはしずまることなく、この申し出を拒絶します。
大学に長く勤めたいということではありませんでした。執筆に追われ時間が足りない、といつもこぼしていましたから。
ただ、一片の通知だけで解雇をしたことが人として決して許せなかったのです。
53歳で子ができ、「恥じます」
やがて寿々子が生まれます。この時、八雲は53歳になっており、「私、はじます」とはにかんでいました。4人目にして初めての娘の誕生を喜びつつ、自身の年齢からしてこの子の行く先は見てやれない、と寂しがってもいました。
東京でも松江時代と変わらず、八雲は帰宅すると散歩に出るのが日課でした。その頃のお伴は、一雄であることが多かったようです。面影橋を経由して雑司ケ谷の鬼子母神と行く道を好み、中野方面に足を延ばすこともありました。
晩年は心臓に不安を抱えていました。落合の火葬場の前を通りかかると、煙突を指さして「もうじき私、煙となって出るところです」。などと弱気なことをもらし、セツにいさめられると、「私の体私よく知るです。一雄の中学校へ参るを私見る難しいです」
寂しそうに、そうつぶやきました。


