しかし「ダッコちゃん」を世に送り出したタカラ創業者の佐藤安太氏(NPO法人ライフマネジメントセンター理事長)は、当時を振り返りこう語る。
「あれはまったくの偶然のヒット商品です。そもそも私は『ダッコちゃん』という名前になったことすら知らなかったのですから。どうしてあんなものが(と言っては何ですが……)売れたのか、いまだによく理解できません」
「ダッコちゃん」大流行の陰には、いくつかの幸運な「偶然」が潜んでいた。
ビニール人形を発売してしばらくたったある日、相撲中継をしていたテレビカメラが、観客の中に妙な人形を腕にくっつけている女性を発見した。気になったのだろう、クローズアップしてその妙な物体をテレビ画面に大映しにした。それが「ダッコちゃん」だった。「いったいあれは何だ?」と一気に〝時の人.となった「ダッコちゃん」は、その後銀座を闊歩する女性たちの腕に次々にぶら下がるようになった。まったく意図したことではない「偶然」の産物。だがマスメディアの威力を思い知らされた経験は、次のヒット商品である「リカちゃん」に活かされた。玩具としては初めてのTVコマーシャル、子どもたち向けのリカちゃん電話。それまで1年限りの一過性のものとして位置づけられていた玩具は、「リカちゃん」以降、毎年発売しても一定の売り上げを見込める定番商品としての地位を確立したのだ。60年代、日本の玩具業界はまだまだ後進国だった。視察団を派遣しても、欧米の玩具見本市に日本人は入れてもらえなかった。理由は「日本人は『コピー屋』だから」。極端なことを言えば、当時の日本人の作る玩具はすべて海外製品の模造品。海賊版が横行する今の中国を非難できない状況だった。だが、そこから這い上がることで、「人生ゲーム」「チョロQ」「トランスフォーマー」と、次々にヒット商品を打ち出していった。経済が豊かになるにつれ、日本の玩具業界も好景気に沸いた。
しかし、時代は徐々に玩具にとって不利な状況へと移り変わっていく。80年代に登場したファミコン、90年代から人々の生活に浸透した携帯とPC、00年代にはニンテンドーDSやWiiが登場したことにより、玩具は役割を終えたかに見えた。ところが、子どもたちは玩具を忘れたわけではなかった。タカラトミーの「ベイブレード」と熾烈な競争を繰り広げるライバル商品は、バンダイの「ハイパーヨーヨー」である。両者に共通するのは、すでにかつてあった伝統的玩具の復刻版であるという点だ。
「すでにあるものをいかにして玩具に落とし込んでいくか」。それが、玩具ヒットのカギであると語るのは、タカラトミー代表取締役社長の富山幹太郎氏である。
「自社に限らず他社の玩具でも、ヒットする商品というのは必ず『あー、やられた!』と思わず叫ぶような発想の転換から生まれています。商品化されてみれば、なんてことのない復刻バージョンでも、思いつけなかったら、こちらの負け。玩具開発に必要なのは“コロンブスの卵”的発想なのです。そもそも玩具の原型なんて、すでにこれまでの歴史の中で出尽くしてしまっている。『ベイブレード』の元祖ベーゴマの起源は平安時代まで遡ります。メンコ、ヨーヨー、ビー玉……。かつての子どもたちが『面白い!』と思った玩具を、いかに発想転換させて現代に蘇らせるか。それが、私たちの勝負どころです」