「ラフカディオ」はミドルネーム
ハーンのファースト・ネームのように使われている「ラフカディオ」は、Patrick Lafcadio Hearnのミドルネームなのだが、ハーンが生まれたレフカダ島の名(Lefcada)に由来する。島は、ギリシャの西北にあるイオニア諸島にあり、母のローザは近くのキシラ島の名士の娘で、父は、当時その諸島を保護領としていたイギリスの軍医(少佐)であった。
私が、ギリシャの西北のパトラスを出てイタリアのブリンディジに向かう船で、レフカダ島の近くを通過したのは、第4次中東戦争の年(1973年)で、在籍したアメリカのコロンビア大学で休学と身分証明書の手続きをとって、「歴史と文学の縁の地訪問の旅」に出ていた。エジプトとギリシャにも魅了されたが、イオニア諸島の「海の美しさ」には、正気を失わんばかりで、人生の最期を迎えるまで「ここに生きたい」という熱望を、繰り返して口にしていた。同乗していたアメリカ人の大学院生から、「あなたの大学には船乗りの学部はないはずだが」と、言われたものである。
セツは事実婚でラシャメンと呼ばれ…
セツとハーンとの出会いと結婚について。明治23年(1890)、40歳のハーンは冨田旅館を出て、松江大橋に近い宍道湖の北岸にあって、絶佳な眺望に恵まれた借家に移った。そして翌年の2月の初め、セツが「住み込み女中」として――しかも「洋妾(ラシャメン)」の恥と責めを負って――同居したのだが、すぐにも、稲垣家にごく近い親戚である高木苓太郎の娘の八百が呼ばれて、女中奉公を始め、それは6月に北堀にある「武家屋敷」へ転居した後も続いた。
筆者は、八百が女中として入った時点(1891年2月の初め)をもって、ハーンとセツの内縁関係(事実上の婚姻関係)の始まりと見なして叙述した(『八雲の妻――小泉セツの生涯』2014・註を参照)。ハーンは手紙で、セツと八百を“my servants”(私の召使いたち)と表現したこともあるが、「西田千太郎日記」では7月の末まで、セツを「ヘルン氏の妾」と記している。
筆者註:上記の拙著は、いったん松江の今井書店から出版された後、内容を強化・充実させて、2025年9月、潮出版社から書名同一の文庫本として、再出版された。

