稼ぎがない養父たちの「思考停止」
セツは働き者でもあり、早朝から機織り機に就き、夜、床に就くまでに一反を織り上げずにはいなかった――今、松江の小泉八雲記念館にセツの「織見本帳」を見ることができる。稲垣家の二人の男(編集部註:養父・金十郎と養祖父・万右衛門)は、セツの機織り――と養母のトミの縫物――によって生きていたのであり、セツが大阪で身投げを思いとどまった時には、二人の男の命が念頭に上ったのであった。
資料で見る限り、二人の男が酒に浸ったとは思われない。しかし彼らの心事が穏やかである筈もない――とりわけ、セツが洋妾(ラシャメン)の恥と責めを負って、ハーンの独り住居に向かった時には。その時には「寒威」が異常に厳しかったことが、ハーンの手紙にも西田千太郎の日記にも記されている。稲垣家の二人の男の心事は、いわば「異常な状況下での思考停止」にあったとも言えるであろう。
西田千太郎は結核を患っていた
そして、西田千太郎。彼は足軽町に住む身だったが、その英語力でハーンを、著作(「知られぬ日本の面影」など)と私生活の両面で支えた。当時撮った西田の写真には、彼が患っていた結核が、しかと刻まれている。セツがハーンの住居に現れる前の数日、西田は結核の熱に侵されて床に臥せっているのであり、ハーンが熊本に向けて松江を去った3年後に――9月の帝国大学(東京大学)への転職を前にして――松江に戻って2カ月滞在した時に、西田はハーンやセツに親しんだが、再会からわずか8カ月後に、34歳で胸の病に屈し、セツの言葉に従えば、「(ハーンを)悲嘆と落胆のドン底に陥れた」。
現在、西田の生涯や生活について、その細部に渡って松江で研究が行われ、発表されている。筆者は敬服する池橋達雄氏(故人)による「西田千太郎日記」の、刊行に向けての原本の読み込みと、それで知った西田の生き様のリアリティに、心を動かされたことを、ここで確認させて頂く。

