前夫は成功し、セツとの復縁を望む
しかも、為二は従順に従うという性格を持ち合わせていなかった事実が、内田融八雲会理事の「前田為二のこと」と題する論考で明らかである(「ヘるん第62号」2025年6月)。氏は、先述の高木苓太郎の「小泉金十郎様・小泉節様」に宛てた手紙――池田記念美術館所蔵になる「高木苓太郎のセツ宛書簡四十二通」の一通――によって、高木が鳥取県で為二に出会い、彼の岡山とその北の津山に本店・支店を構えての事業の成功と、松江への進出の意向――稲垣家の婿養子(セツの夫)となって罰亡ぼしをする用意――があったことを明らかにしている。
セツは、愛情豊かで芯のある女であった。そうでなければ、ハーンが、7月25日付のチェンバレン宛の手紙で、「日本の女性は何と優しいのでしょう。」と、また8月11日付のへンドリック宛の手紙で「女性たちは、間違いなく最も優しい存在です」と書く訳はなく、更に言えば、ハーンが没した月(1904年9月)に出版され、日露戦争の進行の故に、全世界の知識人によって読まれた著書『日本 一つの解明』で、繰り返し、あれだけ熱心に「日本女性(の優しさ)」が説かれる訳がない。
養祖父が「八雲」の名付け親に
8月11日の手紙では、「私の家庭生活は、このうえなく幸福なものとなり」と書かれ、結婚生活が確認される。その11月に転居した熊本で、長男の一雄が生まれ、セツと一雄による相続を確実にするために、高木苓太郎は、まず二人の「稲垣家への入籍」のために松江市役所に通った。1年の間を置いた1896年の2月に、ハーンは小泉家の分家の主として入籍して、帰化する手続きを完成するが、そのために松江市役所でその手続きを行ったのも、高木苓太郎である。
ハーンだけでなく、セツも一雄も小泉姓となることに、「稲垣一雄は万々歳」と唱えながら一雄を負ぶっていた万右衛門は不満で、次男(一雄の弟)は、セツの養母のトミと養子縁組をし、稲垣巌の名で戸籍手続きが取られた。
また、西田千太郎の手紙によれば、小泉八雲の「八雲」は、万右衛門の提議によるもので、それは「古事記」と「日本書紀」の双方にある日本最古の歌、「スサノオノミコト 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」の初句に由来する。



