大小の天守が建ち並ぶ水城だった
元亀2年(1571)9月の比叡山焼き討ちののちに、信長から近江国滋賀郡(主に大津市の瀬田川以西)をあたえられた光秀が、信長の命によって、京都と比叡山を監視する目的で築いたのが坂本城だった。
三重の水堀で囲まれ、それぞれの堀に琵琶湖の水が引き入れられた水城だった。また、織田信長が琵琶湖の制海権を握るための拠点、という位置づけでもあったと考えられている。
堺の豪商の天王寺屋津田宗達から3代にわたる茶会記録である『天王寺屋会記』によると、宗達の嫡男で光秀の茶の師匠だった宗及が、天正6年(1578)1月11日、光秀から坂本城に招かれ、茶会を開いている。そこには「惟任日向守殿(註・光秀のこと)会(中略)会過テ、御座船ヲ城ノ内ヨリ乗候テ、安土ヘ参申候」という記述がある。
つまり坂本城内で船に乗り、安土城まで行くことができたという。これにより、両城のあいだに航路があったことがわかる。
また、『兼見卿記』の天正10年(1582)1月20日の条には、「為惟任日向守為礼坂本へ被下、御祓・百疋持参、面会、於小天主有茶湯・夕食之儀、種々雑談、一段機嫌也」と書かれている。茶の湯が催された場所が「小天主」と書かれており、この記述から、坂本城の天主(守)は1棟ではなく、大天守と小天守があったことがわかる。
琵琶湖に沈む「幻の城」の石垣
しかし、坂本城は長年、「幻の城」と呼ばれてきた。天正10年(1582)6月2日の本能寺の変ののち、6月13日の山崎合戦で光秀が敗退すると、翌14日、光秀の娘婿の明智秀満は光秀の妻子と自分の妻を刺し殺したうえで、火を放って自害。壮麗な城は灰燼に帰してしまった。
その後、羽柴秀吉の命令で丹羽長秀がいったん再建し、城主になった。賤ケ岳合戦のための軍事基地としても使われたが、天正14年(1586)、城主だった浅野長政は、やはり秀吉の命であらたに大津城(大津市)を築いて移り、坂本城は廃城になった。
このようにわずか15年ほどしか存在せず、石垣をはじめとする資材は大津城築城に使われたため、遺構がほとんどなかった。それに、安土城に次ぐ城でありながら、絵図もまったく残っていなかった。
こうして歴史的価値と裏腹に打ち捨てられたまま、地上から痕跡が消え、住宅が建ち並ぶにいたった。昭和54年(1979)まで発掘調査さえ一度も行われず、琵琶湖の水位が下がったとき、湖底から石垣の一部が現れるのを除けば、ほとんど顧みられることもなかった。


