対等な夫婦にはなり得なかった

こうした文章はハーンとマティの関係がなぜうまくゆかなくなったかを私たちに教えてくれているように思えます。ハーンにとって彼女との結婚は「救ってやるつもり」のものだったのでしょう。また「彼女は私の助けになどなりませんでしたが」という言葉は、いかにも相手を目下に見ているトーンがあり、二人がついに最後まで対等な男と女として夫婦にはなり得なかったのがわかります。

工藤美代子『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(毎日文庫)
工藤美代子『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(毎日文庫)

ハーンはワトキンにマティが町を去って田舎へ行くよう説得してくれと頼みます。けれども、結局マティはシンシナティにとどまり、永遠に町を去ったのはハーンの方でした。ハーンの手紙に書かれたマティは、確かに彼を悩ませる、自堕落な女だったかもしれません。

しかも、ハーンの死後、1906年になって、突然マティはハーンのかつての妻として遺産を請求する訴えを起こしました。これは当時、アメリカの新聞に大きく報道されて話題となりました。この裁判は、そもそも1874年には黒人と白人の結婚は法的に認められていなかったのと、その頃の記録が火災で消失して確認の方法がないとの二つの理由でマティの敗訴という結果で終わりました。

2人とも再婚相手とはうまくいった

マティがその生涯をシンシナティで閉じたのは1913年の11月です。59歳と10カ月の寿命でした。死因は両足の切断のためという記録が残されています。ハーンと別れた後のマティは1880年頃に靴職人のクラインタンクと再婚しました。そして二度目の夫と彼の死まで20年以上を連れ添います。

59歳まで生きたハーンの最初の妻・アリシア・フォーリー(通称マティ)
59歳まで生きたハーンの最初の妻・アリシア・フォーリー(通称マティ)(David H.Waterbury「Woman in the World of Lafcadio Hearn」より)

また14歳の時に産んだ息子のウィリーは成人してからは印刷所を経営しながら黒人社会の精神的なリーダーとして活躍し、多くの恵まれない黒人の子供たちを引き取り世話をしました。その中には後にシンシナティの市長となった少年もいたといわれます。晩年のマティは息子夫婦に引き取られ穏やかな日々を過ごしました。ふと思うのは、ハーンもマティもまだ未熟なまま結婚してしまったのではないかということです。

ハーンも後に日本に来て、セツ夫人と巡り会い幸福な家庭を築きます。ハーンもマティも相手によっては良き妻や良き夫になれた人たちだったのです。若さゆえにお互いに相手を傷つけた二人でしたが、その責任は等分にあったのではないでしょうか。

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