佐藤真海(東京五輪・パラリンピック招致最終プレゼンター)
夏のヒマワリのごとき笑顔である。ヤワな明るさではない、試練を乗り越えた「義足のロングジャンパー」の佐藤真海には精神的なタフさも備わっている。そのマミさんが、2020年東京五輪パラリンピック招致の大一番、最終プレゼンテーションの舞台に立つ。
「これまで招致活動に関わってきた方の努力を思い、日本で開催を待ち望んでいる国民のみなさんの気持ちを込めて、ひとこと、ひとことに気持ちを込めたいと思います」
もちろん、楽観はできないけれど、今回の招致では勝負の“土俵”の上には載っている。勝機はある。ライバルがマドリード(スペイン)、イスタンブール(トルコ)。
障害スポーツ者の五輪である「パラリンピック」には、2004年アテネ、08年北京、12年ロンドンと3大会連続で女子走り幅跳びに出場した。この7月のIPC(国際パラリンピック連盟)世界陸上選手権では銅メダルを獲得した。勝負度胸には定評がある。
「種目は違いますが、日本代表としてしっかりとプレゼンをしてきたいと思います。おそらく4年に一度のパラリンピックより、緊張すると思うんですけど、みなさんのお力を借りて精一杯がんばります」
東日本大震災で被災した宮城県気仙沼市出身。津波に実家の一部が飲み込まれた。今年3月の国際オリンピック委員会(IOC)評価委員会が東京を訪れた際、そういった体験や震災復興の思いをスピーチし、評価委であるIOC委員らを感動させた。
大震災でショックを受け、もう陸上を辞めようかと迷っていた頃、被災地・気仙沼の小中学校の子どもたちを励ましにいったら、逆に自分が励まされたそうだ。
「もう一度、自分自身も頑張ろうという気持ちになったんです。交流を通し、戻ってくる子どもたちの笑顔にスポーツの力を感じることができました」
その子どもたちに背中を押されて出場したロンドン・パラリンピックで6位に入賞した。約8万人もの大観衆の中でマミさんは跳んだ。「一生、忘れられない思い出ができました」と振り返る。
「そういう素晴らしいパラリンピックを日本でも是非、開催したいと思って活動してきました。故郷のみなさんにも五輪パラリンピックを見てもらいたい。感謝の気持ちを伝えたいと思います」
仙台育英学園高校から早大に進み、応援部でチアリーダーとして活動していた。だが骨肉腫にかかり、2002年4月に手術で右足をひざ下より切断した。実は今も再発の恐怖と闘っている。
大事にしているコトバは? 聞けば、31歳のマミさんは小声でこう、口にした。絶望の時、母から贈られたものである。
「神様は乗り越えられない試練は与えない」