宮本慎也(プロ野球 東京ヤクルトスワローズ内野手)

宮本慎也(みやもと・しんや)
1970年、大阪府出身。身長176センチメートル。右投げ右打ち。PL学園高校2年生の夏に甲子園優勝。同志社大学では明治神宮大会優勝。プリンスホテルを経て94年にヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)にドラフト2位で入団。ゴールデングラブ賞10回(99年から5年連続)。2011年に三塁手守備率(9割9分7厘)、11~12年に三塁手連続守備機会無失策(257)、いずれもセ・リーグ記録樹立。01年のシーズン67犠打はプロ野球記録。日本のプロ野球で2000本安打と400犠打の両方を達成した唯一の選手。

気持ちの整理がついたからか、どこか清々しい顔つきだった。今季限りの現役引退を表明したプロ野球ヤクルトの宮本慎也内野手の「引退会見」。涙はなかった。

「まだ(シーズンが)終わってない。今日、家を出る前、(家族から)“おとうさん、泣くなよ”と言われてきたんです。でも、最後の試合はもしかして、泣くかもしれません」

26日。東京・青山のヤクルト球団事務所。宮本はユニフォームではなく、紺色のスーツ、白いワイシャツ、紫色のネクタイ姿で壇上に座った。メディアがざっと150人。誰からも愛される人柄ゆえだろう、部屋の後ろには立ち見の多くの球団職員の姿もあった。

42歳の宮本は淡々とした口調で、まずは引退に至る経緯を説明する。

「交流戦あたりからスタメンでの出場が減ってきて、レギュラーで出られないというのは引く時かなと感じていました」

守備力を買われてヤクルトに入団して19年目。遊撃手などでゴールデングラブ賞を10度獲った「名脇役」にとって、守れない時はユニフォームを脱ぐ時と決めていたのだろう。打球への反応から、グラブさばき、スローイングへの一連の動きは芸術品だった。

誇れる記録は? と聞かれると、職人肌の宮本は少し笑みをたたえた。

「守備の部分ではゴールデングラブ賞とか、無失策とかいうのは数字として残るんですけど、自分で誇れるものといえば、本当になんというのか、全力でボールを捕りにいって、アウトにしようという姿勢を最後まで貫けたことでしょうか」

チームの勝利がすべて、である。入団当初はレギュラー獲りに精進し、レギュラーとなってからは「毎日毎日、勝ちたい、勝ちたいと思ってグラウンドに出ていた」という。その積み重ねが、通算2000本安打につながったのである。

チームの日本一にも3度、貢献した。やり残したことは?

「心残りはもう一回、優勝したかったけど……。あとは(悔いは)ないです」

野球に取り組む真摯な姿勢、統率力は高く評価され、日本プロ野球選手会の会長を務めた。また2004年アテネ五輪、08年北京五輪では日本代表の主将を任された。

よほど日の丸を背負う重圧が重かったのだろう。今でも覚えているのは、北京五輪で取材したときの宮本の涙である。日本はメダルを逃し、4位に終わった。

その準決勝の韓国戦。試合後、敗戦の責任を一人で背負うかのごとく、宮本は打ちひしがれていた。「ほんとうに申し訳ないです」と言って涙を流した。確か、こちらまでつい、もらい泣きしそうになったものだ。

会見で、宮本らしいやりとりは「プロ野球生活で誇りに思えることは?」と聞かれた時だった。「なんでしょう」と考え込んだ。

「う~ん。好きで始めた野球なんですけども、プロになった瞬間に仕事になって……。よく最近、“楽しむ”“楽しむ”というんですけど、僕は一回も楽しんだことはない。仕事として、真剣に向き合って、19年間、やってこられたところが誇れることです」

現役は終わっても、野球生活は続くだろう。引退後は「野球を勉強したい」と言った。当然、指導者の道に入ることになる。

「これはタイミングとか、縁とかあるので、先のことはわかりませんけど、(プロ野球界に)“戻りたい”というより、“戻ってきてくれ”と言われるように勉強したい」

(共同通信社=写真)
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