軍備を立て直し外交でも成果
挽回できたのは勝頼の立て直し策が功を奏したからだろう。まず、戦死した重臣たちの後継者を決め、そののちに18箇条の「軍役条目」を定めた。そこでは信長および家康と対決する決意を示し、あらためて勝頼への忠誠を誓わせ、長柄を減らして鉄砲を増やすように指示している。
長篠合戦から4カ月しか経っていない天正3年(1575)9月、家康が遠江国の小山城(静岡県吉田町)を攻めた際、勝頼は1万3000を超える軍を率いて救援に現れた。敗戦から間もない勝頼がこれほどの兵を率いるとは想像しなかった家康は、「信玄に鍛えられただけのことはある」と感心している(『当代記』)。
また、諸国との外交でも大きな成果を上げている。天正3年10月には、宿敵であった上杉謙信との和睦が実現し(甲越和睦)、翌天正4年(1576)9月には毛利輝元との同盟(甲芸同盟)が成立。北条氏政との同盟強化もはかり、天正4年1月に、氏政の妹の桂林院殿が勝頼の正室に迎えられた。さらには本願寺とも連携するなど、着々と信長包囲網を築いていった。
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