慈円の歴史書『愚管抄』のおしえ

それを最初に指摘したのが天台宗の座主ざすに4回も就任している慈円じえん(1155~1225年)である。

天台宗の総本山は比叡山延暦寺で、当時、比叡山は日本の仏教界の中心に位置していた。比叡山では仏教の教えだけではなく、儒教の教えについても学ぶことができ、いわばそこは総合大学の性格を持っていた。つまり慈円は、現代でいえば、東大の総長のような人物だったのである。

平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧、慈円(『國文学名家肖像集』より)
平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧、慈円(『國文学名家肖像集』より)(写真=Hannah/PD-Japan/Wikimedia Commons

それも、慈円の生まれが大きい。父親は摂政関白を務めた藤原忠通ただみちであり、母を同じくする兄弟には、やはり摂政関白となった九条兼実かねざねや太政大臣になった藤原兼房かねふさがいた。この時代、仏教界の頂点に立つことができるのは、そうした名門の家の出身者ばかりだった。その慈円がつづった歴史書が『愚管抄ぐかんしょう』である。