「勝川春朗」から「画狂人」まで名を変えた

北斎は貧乏生活に陥ることがあり、それが極まるとすぐに門人に画名を譲ろうとしたのです。門人もたまったものではなく、閉口したとのこと。北斎の凄いところは改名するごとに画風が変化していると評されていることです。これは誰でもできることではありません。

ちなみに北斎の画号には「勝川春朗」「勝春朗」「叢春朗」「群馬亭」「辰政」「雷震」「雷斗」「戴斗」「北斎」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「卍翁」「卍老人」「不染居」「九々蜃」などがあります。有名な「北斎」は「北斎辰政」の略称であり、彼が39歳の頃に名乗りました。この画号は北極星を神格化した北辰妙見菩薩信仰(日蓮宗系)によるとされます。北斎は常に「妙法蓮華経普賢菩薩勧発品(みょうほうれんげきょう・ふげんぼさつ・かんぼつほん)」の呪を唱えていたと言いますが、道を歩く時もそうだったようです。

20歳の北斎が勝川春朗の名前で制作したデビュー作「三代目瀬川菊之丞の正宗娘おれん」、安永8年(1779)、東京国立博物館蔵
20歳の北斎が勝川春朗の名前で制作したデビュー作「三代目瀬川菊之丞の正宗娘おれん」、安永8年(1779)、東京国立博物館蔵(出典=colbase

そう聞くと「信仰心がある人なのか」もしくは「変人なのか」と思うでしょう。ではなぜ北斎はそんなことをしていたのか。それは北斎は道端での立ち話や雑談をすることが大嫌いだったからです。煩わしいと思っていたのです。北斎は「呪を唱えながら歩くと道で知っている人に会っても目に入らない。奇妙なことだ」と語っています(また知人であっても、呪を唱える人に話しかけにくいでしょう)。