認知症の人は「家に帰りたい」という帰宅願望が強く、施設や医療機関から脱走してしまうことがある。どう対処すればいいのか。現役介護士のたっつんさんによる『認知症の人、その本当の気持ち 意味わからん行動にも理由がある』(KADOKAWA)より、介護施設に入所してから毎日「帰る!」と言って聞かなかった女性(84)のエピソードを紹介する――。

夕暮れ時に響く、終わらない「帰らなあかん」

足立さん(84歳)は介護施設に入所して1週間。夕方になると、そわそわと落ち着かなくなり、「うちへ帰らなあかん」という言葉が口癖のように繰り返されます。

施設の介護スタッフたちは、プロとして、あらゆる言葉を尽くしました。

「足立さん、ここが今日から足立さんのおうちですよ」
「外はもう暗いから危ないですよ。今夜はここに泊まっていってください」

しかし、どんなに丁寧に説明しても、足立さんの決意は揺らぎません。「あかん!」「帰らな、あかんのや!」と、その声は切実さを増すばかり。この「説得」と「拒否」の不毛な応酬に、介護スタッフたちの心にも「またか……」「何を言っても無駄だ」という無力感を少しずつ蓄積させていったのです。

「帰りたい」なら、一度帰ってみる

この膠着した状況で介護士のたっつんさんは、一つの「賭け」ともいえる提案をします。それは、これまでの対応とは180度異なる、まさに逆転の発想でした。

他のスタッフが「どうしたら『帰る』と言わなくなるか?」を考えている中、たっつんさんは、その問い自体を一度手放しました。そして、足立さんの訴えを丸ごと受け入れてみることにしたのです。

ある日の夕方、いつものように「帰らなあかん」と訴える足立さんに、彼はこう声をかけました。

「おうちまで送っていきますよ」

ここには認知症ケアの極めて重要な哲学が隠されています。それは、「否定しない」という姿勢です。相手を頭ごなしに否定し、こちらの要求を押し付けても、反発や混乱を招くことに繋がりかねません。大切なのは、まずその人の世界に寄り添い、その感情を肯定すること。たっつんさんの提案は、まさにその実践でした。

彼は「帰りたい」という足立さんの“感情”を受け止めたのです。その瞬間、足立さんとたっつんさんの関係も変わり始めました。